イェフド・メディナタ(アラム語でユダの国)は、ペルシャ・アケメネス朝帝国の一部でした。エベル・ナーリの属領に属していました。
おおよそ旧ユダ王国のようなものでしたが、土地は少なかったようです。イェフド・メディナタの面積は、ユダ王国が新バビロニア帝国に侵略された後(597年頃)作られた、以前のバビロニア州イェフドとほぼ同じです。
イエフド・メディナータは、アレキサンダー大王が征服し、彼の帝国の一部とするまで、2世紀にわたって存続した。
概説と成立過程
イェフド(Yehud)は、紀元前6世紀中葉にペルシャがバビロニアを倒した後に形成された、比較的小規模な行政区画です。ペルシャ王は地方統治を重視し、既存の地方有力者や宗教指導層を通して統治する方針を採りました。その結果、ユダヤ人の共同体は一定の宗教的・自治的な空間を維持しつつ、帝国全体の一部として組み込まれました。
政治と行政
中央から任命された地方長官や、帰還民を率いた地元の指導者が行政を担いました。聖書や他の史料には、ゼルバベル(ゼルバベルは帰還者の指導者として知られる)や、後の時代にはネヘミヤ(ネヘミヤ記にみられる王の廷臣であり地方総督的役割を果たした人物)といった人物の名が残ります。これらの人物は必ずしも「独立した王」ではなく、ペルシャ帝国の許可・監督のもとで地域を統治していました。
宗教・社会の再建
宗教面では、ペルシャ王朝の寛容政策のもとでエルサレムの神殿再建が進められ、伝統的な祭司階層や礼拝制度が復興しました。一般に、キュロス王による帰還令(紀元前538年頃)以降、帰還者と在地住民が混在する社会が形成され、紀元前516年頃には第二神殿の基礎的な機能が整ったとされます。
言語・文化・経済
公的・行政的にはアラム語が広く用いられましたが、宗教や文学の領域ではヘブライ語の使用が引き続き重要でした。経済的には、農業・牧畜が中心で、地域的にはエルサレム周辺の丘陵地帯を主要な生産地としました。ペルシャ帝国内の交易路や管理制度に組み込まれたことで、以前よりも広域的な流通や課税制度の影響を受けました。
考古学的・史料的資料
この時期の研究は、聖書文献に加えて考古学的遺構、粘土印章、小型遺物、碑文などを手がかりに進められています。エルサレム周辺やその他の遺跡で見つかる建築遺構・器物は、イェフドがペルシャ帝国の地方行政と宗教的再建の文脈の中にあったことを示しています。
終焉とその後
イェフド・メディナータは、およそペルシャ支配期(紀元前6世紀〜紀元前4世紀)の間に存続し、最終的にはアレキサンダー大王の東方遠征(紀元前4世紀)によってペルシャ帝国とともに変革を迎えます。アレキサンダー以後は、ヘレニズム諸勢力の支配下に置かれ、地域の政治的・文化的状況も徐々に変化していきました。
まとめ
イェフド・メディナータは、旧ユダ王国の領域を縮小したかたちでペルシャ帝国内に再編された地方単位であり、宗教的再建(第二神殿の成立)と地域社会の再構築が進んだ時代でした。帝国の一構成要素としての性格と、地元の宗教的・社会的主体性が同時に存在した点が、この地域の特徴です。