1278年:マルヒフェルトの戦いとハプスブルク家の台頭
1278年は、マルヒフェルトの戦いとハプスブルク家の台頭で知られる年。13世紀後半のヨーロッパとアジアにおける政治・文化的背景を概説する。
1278年は、中部ヨーロッパにおける決定的な軍事的転換と、ユーラシア各地で継続した政治・文化の動きによって特徴づけられる13世紀後半の年である。この時代には中世の君主制が領土支配を強化し、ハプスブルク家などの王朝が長期的な権力基盤を確保し始めた。またアジアでは、モンゴル系および中国の政権が勢力均衡を引き続き変化させていた。
画像ギャラリー
1 画像主な出来事
- マルヒフェルトの戦い(1278年8月26日):現在のオーストリアのデュルンクルートとイェーデンスパイゲンの近くで行われた重要な戦い。ドイツ王ルドルフ1世は、ボヘミア王オタカル2世プシェミスルを破り、戦死させた。この結果、ボヘミアの拡張的な企図は弱まり、ルドルフはオーストリア諸地域に対するハプスブルク家の支配を確立することができた。
- 神聖ローマ帝国の内外では、地方諸侯、司教、対立する王位請求者が関わる地域的な争いが続いた。これは当時に典型的な権力の分裂と分権化を反映している。
- アジアでは、1270年代後半にフビライ・ハンのもとにあるモンゴルの元朝が中国における支配を固める一方、残存する宋の抵抗勢力に対する遠征も10年の終わりに向けて続けられた。
1278年の出来事として最も広く記録されているのは、長期的な影響をもったマルヒフェルトでの戦いである。オタカル2世の敗北と死により、有力な地域統治者が排除され、ハプスブルク家が後の帝国の中核地域となる諸公国を獲得する道が開かれた。数年前の1273年に行われたルドルフの王選出も、空位時代と中央権力の弱体化を経た後の帝国指導部の変化をすでに示していた。
政治的・社会的背景
ヨーロッパ全体で13世紀後半は、領土支配の統合、王権による司法と課税の拡大、貴族諸家の競争激化の時代であった。都市は規模と影響力を増し、交易網は拡大し、ゴシック建築は宗教建築と公共建築の形成に引き続き大きな影響を与えた。東地中海とイスラーム世界では、マムルーク朝スルタン国などの国家が独自の地域的政策を追求し、海上交易はヨーロッパ、北アフリカ、近東を結びつけていた。
主な人物
- オタカル2世プシェミスル(約1233年~1278年)— ボヘミア王。マルヒフェルトの戦いで戦死した。
- ハプスブルク家のルドルフ1世(1218年~1291年)— ドイツ王。1278年の勝利によって、ハプスブルク家の領土的基盤を強化した。
1278年は、先に台頭した王朝がその領有地を固める一方、新たな勢力が後の中世および近世の歴史を形づくる軌道に入り始めた過渡期に位置する。この年の出来事がもたらした直接的な軍事・政治上の結果は、数世紀にわたって中部ヨーロッパの勢力関係に影響を及ぼした。
数と表記
暦年としての意味を離れると、1278は整数である。ローマ数字ではMCCLXXVIIIと表記する。素因数分解は2 × 3² × 71であり、2、3、9で割り切れる偶数の合成数である。
関連項目
著者
AlegsaOnline.com 1278年:マルヒフェルトの戦いとハプスブルク家の台頭 Leandro Alegsa
URL: https://ja.alegsaonline.com/art/111200