ビムセン・タパ・リッスン(help-info)(ネパール語:भीमसेन थापा、1775年8月 - 1839年8月5日)は、1806年から1837年まで事実上の最高権力者として政権を掌握したネパールの有力な政治家・軍人で、ムフティヤール(首相に相当)の称号で知られています。タパ家(Thapa)は当時のネパール政治における重要な勢力であり、ビムセンはその中心人物として国内政治と対外政策の両面で大きな影響力を誇りました。
出自と台頭
ビムセンは若年期にラナ・バハドゥール・シャー王の側近として仕え、1797年にハジュリヤ(個人秘書)に任命されました。1800年にはラナ・バハドゥールと共に北インドのバラナシ(ベナレス)へ行き、その後の政局で重要な役割を果たします。1804年にラナ・バハドゥールが政治的復権を目指した際、ビムセンは復帰の準備を補佐し、その功により同年に新政府のカジ(大臣に相当)に起用されました。
権力掌握と政権運営
1806年、ラナ・バハドゥールが暗殺された事件を契機に首都カトマンズでは大規模な政争が起こり、ビムセンは政敵の一掃に踏み切りました。いわゆるコット事件(カトの騒動)後、彼は多数の政治的対立者を排し、実権を握ってムフティヤール(首相に相当)の地位を確立しました。史料によれば、この粛清で約九十三人が処罰・処刑されたとされています。
政権下では中央集権化と軍事強化を推進し、官僚制度や軍制の再編を行いました。経済面や宗教・文化事業にも関与し、首都の都市整備や寺院建立など公共事業を進めて国内基盤の安定を図りました。
拡張政策とアングロ・ネパール戦争(1814–1816)
ビムセン政権は西方のヒマラヤ麓地域に対する影響力拡大を目指し、カングラ(Kangra)、クマオン(Kumaon)、ガルワール(Gadhwal=Garhwal)などで軍事行動を展開しました。これらの拡張は地域の諸勢力との争いを激化させ、やがてイギリス東インド会社との直接対決を招きます。
1814年、東インド会社との衝突が全面戦争(アングロ・ネパール戦争)に発展しました。ビムセンはネパール軍の指導に当たりましたが、戦局は不利となり、最終的に1816年に平和条約(スガウリ条約:Treaty of Sugauli)が締結されます。この条約によりネパールは多くの領土(クマオンやガルワールの大半、南部の一部の地域)を失いましたが、国家としての独立は維持されました。
業績と治績
- 軍制・行政の整備:常備軍の編成や地方統治の見直しを進め、中央権力の強化を図った。
- 都市建設・土木事業:首都カトマンズにおける公共事業を奨励し、ダラハラ(ビムセン塔)をはじめとする塔や池、給水施設、道路舗装、寺院建立などを支援した。
- 文化・宗教の保護:ヒンドゥー教の宗教施設や儀礼を保護し、王侯と協働して社会的安定を図った。
衰退と最期
ビムセンは長年にわたり強権的な支配を続けましたが、宮廷内の派閥抗争は終息せず、特に王室内での支持基盤が弱まると、1830年代に入って状況は悪化しました。女王ラリタ・トリプラ・スンダリ(Lalita Tripurasundari)など最も強力な後ろ盾を失ったことや、パンデ家などの対立勢力の台頭により、1837年に失脚し投獄されました。1839年、獄中で死去(史料によっては自殺と記される場合もある)しました。彼の死はその後のネパール政治に大きな影響を与え、タパ家の権勢は衰退していきます。
ビムセン・タパは、領土拡張と中央集権化を通じて近代ネパールの礎を築く一方、強権的な政治手法と宮廷内の粛清により激しい論争を呼んだ人物として評価が分かれます。その遺構としての塔や寺院、都市基盤整備の事業は今日でも一部に形を残しています。