スコットランド王位請求者エドワード・バリオール(1283–1367):生涯と王位主張
スコットランド王位請求者エドワード・バリオール(1283–1367)の生涯と1332–1336年の在位、英蘇関係と王位継承の激闘を詳解。
エドワード・バリオール(約1283–1367)は、スコットランド王位を巡って長年にわたり主張を続けた有力な請求者である。彼はジョン・バリオールの長男として生まれ、父ジョンが王位に就いていた家系の直系であったため、王位継承権を主張する立場にあった。ジョン王は、スコットランド王位を巡る混乱(いわゆる「大訴訟(Great Cause)」)とその後の英蘇関係の中で、結果的に王位を失い(1296年にエドワード1世によって退位させられた)、以後バリオール家はいわゆる「失地貴族(the Disinherited)」の一派として、失われた領地と地位の回復を目指すことになる。
王位請求の背景
1280年代から1290年にかけての出来事が、スコットランドの王位問題を複雑にした。若年で早世したノルウェー王女マーガレット(通称〈ノルウェーの乙女〉)の死は王位継承の危機を招き、各有力者間での争い(大訴訟)を経て、1292年にジョン・バリオールが王に選ばれた。しかしジョンの治世は不安定で、英王エドワード1世の干渉が強く、最終的に1296年に退位した。こうした事情が、子のエドワード・バリオールの後年の動機(父家の復権と失地回復)につながる。
反乱と即位(1332年)
ロバート1世(ロバート1)の死後、彼の息子デイヴィッド2世が幼年で王位を継承したことを含め、国内の情勢は依然不安定であった。1314年の旗手たちの戦い以降、スコットランド国内にはバリオール家の権利を主張する者たちが存在し、次第に英側とも結びついていく。エドワード・バリオールは、国外追放された失地貴族らの支援と、当初はイングランド王室の寛容(そして後のエドワード3世の利益)を背景に、1332年に軍を起こしてスコットランドに侵入した。
1332年8月のダップリン・ムーアの戦い(Battle of Dupplin Moor)での勝利を経て、同年9月にスコットランドの伝統的な戴冠地であるスコーンで即位(戴冠)した。しかしこの「王位」は国内の広範な支持を得たものではなく、多くのスコットランド人からは英王や失地貴族の傀儡(パペット)と見なされた。
在位と追放(1332–1336)
エドワードは1332年から1336年にかけて断続的に「王」として行動したが、その実権は限られており、イングランドからの軍事・財政的支援に依存していた。1333年のヘリドン・ヒルの戦い(Battle of Halidon Hill)など、英軍の介入で一時的に彼の支配が補強される場面もあった。しかし国内の抵抗と王党派(ブルース派)の復権により、バリオールの支配は安定せず、幾度か追放・帰還を繰り返した。
請求権の放棄と晩年
エドワード・バリオールはその後も王位請求を完全には放棄せず、1356年頃まで請求を主張しつづけたという史料がある。最終的にはイングランド王室との妥協のもと、年金や所領を受け取り、スコットランドにおける政治的野望を断念する形で晩年を過ごしたとされる。1367年にイングランドで死去したと伝えられている。
評価と影響
- エドワード・バリオールの行動は、スコットランド内戦(ブルース家とその支持者対失地貴族)を長引かせ、英蘇関係を一層複雑にした。
- 「傀儡王」との批判を免れなかった一方で、彼の王位請求は失地貴族たちの直面した現実(土地と権利の喪失)を象徴しており、当時の政治的力学を理解するうえで重要である。
- 最終的に彼が王位請求を放棄したことは、スコットランドの独立問題と英王室の対外政策に影響を与え、以後の世代にわたる論争の一因となった。
注:本稿では主要な出来事と一般的な史的評価を簡潔にまとめた。年代や細部の経緯については史料によって差異があるため、専門的な研究・一次史料を参照するとより詳細な理解が得られる。
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