エニド・ミュリエル・ライオンズ(旧姓バーネル、Dame Enid Muriel Lyons、AD、GBE、1897年7月9日 - 1981年9月2日)は、オーストラリアの政治家であり、女性として初めてオーストラリア下院議員に選出され、さらに女性として初めて連邦内閣で閣僚職に就いた人物です。彼女はタスマニア州首相、後のオーストラリア首相ジョセフ・ライオンズの妻としても広く知られています。

生い立ちと家族

ライオンズはタスマニア州スミトンで、ウィリアム・バーネルとエリザ・バーネルの三人姉妹の一人として生まれました。若年期にホバートで教員資格を取得し、教職に就く準備をしました。結婚後は政治家の妻として公的生活に関わる一方で、多くの子どもを育てながら地域のコミュニティ活動にも参加しました。彼女の母は労働党や地域団体で活動しており、ライオンズ自身も公共サービスや市民活動に強い関心を持っていました。

首相の妻としてと夫の死

夫ジョセフ・ライオンズはタスマニア州長官(州首相)を経て、連邦レベルでも活躍し、1932年から首相を務めました。エニドは首相夫人として公務を支えつつ、慈善や家庭問題などの分野で存在感を示しました。1937年の戴冠式記念として、彼女は大英帝国勲章(GBE)のデイム・グランド・クロスを授与されました。ジョセフ・ライオンズは1939年に在職中に急逝し、その死はエニドにとって大きな転機となりました。彼女はジョセフ没後に一時タスマニアに戻り、政治的な出来事や党内の動きに対して複雑な感情を抱いていたと伝えられています。特にロバート・メンジースがUAPの指導者となった経緯について不満を持っていたことは知られています。[1] ロバート・メンジース(Robert Menzies)が、ジョセフの死の直前に内閣を辞任して夫を裏切ったと信じていた、といった感情を抱いていたことが後年の回顧録などで明らかになっています。

下院議員としての活動

ライオンズは1943年の総選挙で、タスマニア北西部のダーウィン選挙区からUAP候補として立候補し、僅差で当選しました。この勝利により、彼女は国会下院に選出された初めての女性となりました。選挙では労働党候補のエリック・リース(後にタスマニア州首相)が初動票で上回る場面もありましたが、最終的にはライオンズが議席を獲得しました。同じ選挙で、ドロシー・タングニーが上院に当選し、国内で初めての女性上院議員となっています。

下院では家族・福祉・女性の地位向上といったテーマを中心に活動し、戦後の社会整備や家庭支援策に関する議論で存在感を示しました。1949年にロバート・メンジースが率いる自由党・連合政権が発足すると、ライオンズは連邦内閣の職に就き、女性として初めて連邦閣僚の一員となりました(副行政評議会議長:Vice‑President of the Executive Council)。彼女は1949年から1951年まで閣僚として務め、女性の国政参画の先駆けとして広く認められました。

引退後の公的活動と著述

1951年に議員を退任した後、エニド・ライオンズは公的活動を継続しました。1951年から1954年まで新聞のコラムニストとして意見を発表し、1951年から1962年まではオーストラリア放送局のコミッショナーを務めました。放送やメディアを通じて家族や女性に関する問題を提起し、公共の場で活発に発言を続けました。彼女は自伝・回顧録を三巻にわたって刊行し、その中で1939年当時の政局や自身の政治観、メンジースらに対する不満などを述べ、時に自由党内に波紋を広げました。

栄誉と晩年

ライオンズは長年の公的貢献により数々の栄誉を受けました。1937年のGBE(デイム・グランド・クロス)に加え、1980年のオーストラリア・デーにはオーストラリア勲章(AD:デイム・オブ・ザ・オーダー・オブ・オーストラリア)を授与されました。これにより、異なる勲章でデイムの称号を受けたオーストラリア人女性としては先駆的な存在となりました。

1981年9月2日に逝去し、遺体はタスマニア州デボンポート(Devonport)で国葬が行われた後、マージー・ベイル・ローン墓地(Mersey Vale Lawn Cemetery)で夫ジョセフの隣に埋葬されました。彼女の政治的な足跡は、オーストラリアにおける女性の参政権拡大と政治参加の歴史において重要な位置を占めています。

主要な功績(要約)

  • オーストラリア下院に初めて選出された女性議員
  • 連邦内閣で初めて閣僚職に就いた女性(Vice‑President of the Executive Council)
  • 放送行政やメディアを通じた公共的発言、回顧録の刊行による社会的影響
  • GBE(1937年)およびAD(1980年)など複数の勲章を受章