ルイ=アンリ・ド・ブルボン(コンデ公、1692–1740)—ルイ15世の首相としての生涯

コンデ公ルイ・アンリ・ド・ブルボン(ルイ・アンリ・ジョセフ、1692年8月18日 - 1740年1月27日)は、1710年から亡くなるまで、当時のブルボン家のいとこであり、近親者のルイ15世の首相を務め、1723年から1726年にかけてはコンデ公の首相に就任した。

1709年にコンデ家の当主となったが、その名は使わず、「ブルボン公」の称号を好み、宮廷では「ムッシュー・ル・デュック」と呼ばれた。ブルボン家の君主として、血統的には王子であった。

生涯と家系

ルイ=アンリ・ド・ブルボンはブルボン=コンデ家の有力な分家の出身で、若くして家督を継いだ後は大領主として領地と家門の管理にあたった。宮廷では格式ある立場にあったため、王家との近親関係が政治的影響力の源となった。家門の伝統に従い、領地経営や婚姻・相続の問題に関与しつつ、公的な礼儀や宮廷の慣習を重んじた人物として知られる。晩年には家督を子に譲り、1740年1月27日に没した。

政治と首相就任(1723–1726)

ルイ15が成年に達した1723年、宮廷内の勢力図が再編されるなかで、ルイ=アンリは王に近い立場を利用して事実上の首相(王の最も信頼される顧問・内閣の実務を取りまとめる役)に起用された。首相としての在任期間は比較的短かったが、当時のフランス政治において重要な時期にあたる。

在任中は宮廷内の派閥争い、特に摂政期に力をもっていたオルレアン家・その他有力貴族とのせめぎ合い、さらには財政・外交の調整に直面した。宮廷の派閥結成や宮廷女性たちの影響を巡る駆け引きが政治の行方を左右する状況で、ルイ=アンリの一連の決定や人事は賛否両論を呼んだ。

1726年、宮廷内外の対立と支持基盤の揺らぎにより彼は政権の座を追われ、かわって長年の信頼を得た宗教指導者である枢機卿フルーリー(André‑Hercule de Fleury)が台頭し、実権を掌握した。以後、ルイ=アンリは直接の行政権から退き、以後は主に領地経営と家門の務めに専念することになった。

私生活と相続

宮廷での呼称や立場が示すように、ルイ=アンリは王家に近い身分であり、その家族関係・婚姻は貴族社会において重要だった。生涯において子をもうけ、その一人である長男が父の死後に家督を継いでいる(跡継ぎはルイ=ジョセフなど、コンデ家の系譜を引き継いだ)。

評価と遺産

ルイ=アンリの政治的功罪は評価が分かれるが、彼の短期間の首相経験はルイ15治世の初期における派閥政治と王権の再編を象徴するものであり、またブルボン=コンデ家の伝統と影響力を宮廷に示す役割を果たした。没後もコンデ家の財産管理や宮廷での礼制は後継者へと引き継がれ、フランス貴族社会の一端をなした。

結婚と子供

1713年7月9日、ヴェルサイユでマリー・アンヌ・ド・ブルボンと結婚し、1720年に死去した。マリー・アンヌは、マリー・テレーズ・ド・ブルボンとその夫であるコンティ公フランソワ・ルイとの間の長女であった。夫妻には子供がいなかった。

次に1728年7月23日にヘッセン=ローテンブルク家のカロリーネと結婚し、一人の息子をもうけた。

  1. ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン(1736年8月9日 - 1818年5月13日)は、フランス革命戦争で「コンデ軍」を率いた人物である。また、彼は2度結婚している。

タイトルとスタイル

  • 1692年8月18日 - 1710年3月4日 アンギエン公爵妃殿下
  • 1710年3月4日 - 1740年1月27日 ブルボン公爵(Monsieur le Duc)殿下

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