アポロ・ミルトン・オボテ(1925–2005):ウガンダ独立を導いた元首相・大統領

アポロ・ミルトン・オボテ:ウガンダ独立を導いた首相・大統領の波乱の生涯と政治手腕、功績と挫折を詳解。

著者: Leandro Alegsa

アポロ・ミルトン・オボテ(Apollo Milton Obote、1925年12月28日 - 2005年10月10日)は、ウガンダの政治家で、1962年に英国の植民地支配からウガンダを独立させた人物です。

1962年から1966年まで、ウガンダの首相を務めた。さらに、1966年から1971年まで、1980年から1985年まで、ウガンダの大統領を2度務めた。

2005年10月10日、オボテは腎不全のため南アフリカ・ヨハネスブルグの病院で死去、79歳。

生い立ちと政治参加

オボテは北部のランゴ(Lango)地域出身で、植民地時代に教育を受けた後、公務や教育の分野で働きながら政治に関わるようになりました。1960年頃には民族を超えた政党結成を目指し、ウガンダ人民会議(Uganda People's Congress, UPC)を中心に活動を展開。独立前後の混乱する政治状況の中で、急速に台頭していきました。

首相・初代大統領期(1962–1971)

1962年の独立時に首相に就任したオボテは、民族や王制の力を弱め中央集権的な国家体制を志向しました。1966年には憲法危機(しばしば「1966年危機」や「メンゴ危機」と呼ばれる)を経て、議会や伝統的な王制勢力と対立し、非常措置を通じて権力を強化。1967年に新憲法を制定して大統領制へ移行し、その後の統治は中央集権化・国家主導の政策を特徴としました。

しかし、この時期の権力行使は批判も招き、野党や一部地域との対立、政治的抑圧の増加を招きました。1971年には軍人のイディ・アミンによりクーデターで失脚し、国外へ亡命しました。

復帰と第二次政権(1980–1985)

1979年にアミン政権が崩壊した後、帰国したオボテは1980年の選挙で政権を取り戻しましたが、その選挙は広く不正が指摘され、正統性を巡る対立が続きました。オボテ政権は反乱分子の武力闘争と対決し、とくに中部のルウェロ三角地帯での衝突は民間人の犠牲も多く、深刻な人道問題を生みました。

1985年には再び軍のクーデターで失脚し、再び亡命生活に入りました。

政策と評価

オボテの政治は、独立と国家建設を推進した点で肯定的に評価される一方で、強権的な統治手法、言論や政治的自由の制限、治安部隊による人権侵害などが批判され続けています。中央集権化と王制廃止は国の統一を図る意図がありましたが、同時に多くの地域対立や不満を生んだことも事実です。

そのためオボテの遺産は非常に複雑で、独立の指導者としての評価と、独裁的傾向や暴力的政策への批判が混在しています。

死去と遺産

2005年10月10日にヨハネスブルグで死去するまで、オボテは亡命先で政治的影響力を保ちつつも故国の政局に直接介入することはほとんどありませんでした。死後もウガンダ国内では支持者と批判者の間で評価が分かれ、近代ウガンダ史における重要かつ論争的な人物として記憶されています。



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