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350年代:ローマ内戦、ユリアヌスの遠征とキリスト教公会議

350年代には、コンスタンスの死後にローマ帝国で内戦が起こり、簒奪者マグネンティウスが台頭・没落した。ユリアヌスはガリアで遠征を行い、重要な教会会議はアリウス派をめぐる論争に影響を与えた。

概要

350年代(西暦350年~359年)は、内紛、ライン川国境での軍事行動、キリスト教内部の激しい論争によって特徴づけられる、後期ローマ帝国の動乱の10年間であった。この時期は、西方における皇帝権力の暴力的な交代によって始まり、宗教論争が長期的な影響をもつ地域教会会議を生み出すなかで、東方皇帝が権力を固めることによって終わった。

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主要な政治・軍事上の出来事

この10年は、将軍マグネンティウスがコンスタンス帝の殺害後に西方で権力を掌握したことで幕を開けた。その後、短命に終わった複数の簒奪と対抗行動が続き、350年代前半はマグネンティウスと東方皇帝コンスタンティウス2世との一連の内戦が支配した。主な戦闘とその帰結には、以下が含まれる。

  • 350年:マグネンティウスの反乱、およびローマでネポティアヌスが一時的に示した対抗勢力。
  • 351年:ムルサ・マヨルの戦い。コンスタンティウス2世は大きな損害を伴う勝利を収め、両陣営はともに弱体化した。
  • 353年:マグネンティウスの最終的な敗北とその後の死。これによりコンスタンティウス2世が唯一の皇帝となった。
  • 355年~358年:西方のカエサルに任命されたユリアヌスは、ガリアを安定させ、ゲルマン人の侵入を撃退する遠征を成功させた。とりわけ357年、アルゲントラトゥム(ストラスブール)での大規模な戦闘に勝利した。

宗教と教会政治

この10年は、アリウス派論争においても決定的な時期であった。コンスタンティウス2世は、帝国教会をニカイア信条の定式から遠ざける政策を支持し、その結果、各地で教会会議と強制的な和解が促された。359年には、アリミヌム(リミニ)とセレウキアで開かれた会議を含む大規模な集会が妥協的な信条の採用を試みたが、その結果はなお争われ続け、神学上の分裂の継続に寄与した。

国境地帯とその他の地域

ライン川・ドナウ川の国境地帯では、帝国はフランク人やアラマンニ人などのゲルマン系集団から圧力を受けたが、ユリアヌスのガリアでの作戦は一時的に国境の安全を回復した。東方では、シャープール2世治下のササン朝ペルシアが引き続き重要な地域勢力であり、ローマとペルシアの国境の外でも、ほかの地域では4世紀に特徴的な政治的分裂と地方的な混乱が見られた。

意義と遺産

350年代は帝国の指導体制を再編し、軍事的解決の限界を浮き彫りにした。内戦は大きな損失をもたらし、コンスタンティウス2世のもとでの政治的中央集権化を加速させた。この時期の教会会議は後世の神学的立場の形成と司教政治に影響を及ぼし、西方におけるユリアヌスの軍事的成功は、この10年の終了直後に行われる彼の昇格への道を整えた。これらの展開は、後期古代に軍事的・政治的・宗教的圧力がいかに交差したかを示している。

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AlegsaOnline.com 350年代:ローマ内戦、ユリアヌスの遠征とキリスト教公会議

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