エドマンド・テューダーとは 第1代リッチモンド伯爵 ヘンリー7世の父の生涯・家系・薔薇戦争

オーウェン・テューダーとキャサリンの子 エドマンド・テューダーの生涯と家系を網羅 第1代リッチモンド伯 ヘンリー7世の父 薔薇戦争でランカスター側の役割とマーガレット・ボーフォートとの結婚

著者: Leandro Alegsa

第1代リッチモンド伯エドマンド・テューダー(1431年6月11日 - 1456年11月3日)は、イングランドに侵攻し1485年にイングランド王となったヘンリー7世の父親である。オーウェン・テューダーとその愛人または妻キャサリン・オブ・ヴァロワの息子で、ヘンリー6世とは異母兄弟である。王家と結びついた血統により、彼と弟ジャスパーはヘンリー6世の庇護を受けて宮廷で育ち、のちにランカスター派の重要人物となった。

出自と家族

母は百年戦争期の王妃キャサリン・オブ・ヴァロワの、父はウェールズ出身の紳士オーウェン・テューダーである。王妃未亡人の再婚に関する法的制約のため両親の婚姻の厳密な法的位置づけには議論があったが、異母兄のヘンリー6世はエドマンドと弟ジャスパーを正式の王族親族として遇し、身分と所領を与えた。兄弟のうち、ジャスパー・テューダーは後にペンブルック伯となり、エドマンドの死後は甥であるヘンリーの後見人として重要な役割を果たす。

称号と地位

エドマンドは1452年にリッチモンド伯(第1代)に叙せられ、同名の名誉(オナー)と関連所領の管理を託された。これにより彼は王家の中核に近い立場となり、ウェールズおよび西部地域での王政側の秩序維持と軍事行動にも関与するようになる。穏健で礼儀正しい人物と伝わる一方、若年から王家の信頼を受け、ランカスター派の求心力の一端を担った。

結婚と子

1453年、ヘンリー6世は有力な相続人マーガレット・ボーフォートの後見をエドマンドに与え、1455年にエドマンドはマーガレット・ボーフォート夫人(当時12〜13歳)と結婚した。この結婚によってテューダー家はランカスター家の血統(ジョン・オブ・ゴーントを祖とするボーフォート家の系譜)と結びつき、のちの王位継承の正統性を支える重要な基盤が形成された。夫妻の唯一の子であるヘンリー(のちのヘンリー7世)は、父の死後の1457年1月28日にペンブルック城で出生した。

薔薇戦争と最期

1450年代半ば、内戦が激化するとエドマンドはランカスター側の指揮官としてウェールズで行動した。1456年夏、彼はカーマーゼン城を掌握したが、その後ヨーク派の攻撃を受けて捕縛され、同年11月3日、カーマーゼン城で獄中のまま病(当時流行していた疫病とみられる)により27歳で死去した。戦場での戦死ではなく、捕囚中の病没である点が重要である。遺骸はカーマーゼンの修道院に埋葬され、後世に聖ダヴィズ大聖堂へ移葬されたと伝えられる。

死後の影響と評価

  • 王朝の架け橋:エドマンドの早世にもかかわらず、彼の結婚はランカスター家の血統とテューダー家を結合し、最終的にテューダー朝成立の決定的条件となった。
  • 後見と保護:弟ジャスパーが未亡人となったマーガレット・ボーフォート夫人と新生児ヘンリーを庇護し、ヘンリーは亡父の遺産と名分を継いで成人、最終的に1485年に即位した。
  • 法的・社会的意義:王妃未亡人の子として生まれた彼の地位承認は、血統と正統性をめぐる15世紀イングランドの政治文化を象徴する出来事である。

主要年表

  • 1431年6月11日:誕生。
  • 1452年:リッチモンド伯に叙せられる。
  • 1455年:マーガレット・ボーフォート夫人と結婚。
  • 1456年11月3日:ウェールズのカーマーゼン城で病没(獄死)。
  • 1457年1月28日:遺腹子ヘンリー(のちのヘンリー7世)誕生。


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