エドワード・オブ・ウッドストック(黒太子、1330–1376)—イングランド王太子・軍人

黒太子エドワード(Woodstock Palace, Oxfordshire, 1330年6月15日 - Westminster Palace, 1376年6月8日)は、イングランドエドワード3世の長男で、歴史的には「黒太子(Black Prince)」として知られる人物である。生涯を通じて軍事的手腕と統治能力で名を馳せ、英仏百年戦争の重要な担い手となった。

生い立ちと地位

エドワードはウッドストック・パレスで生まれ、1343年に若くしてプリンス・オブ・ウェールズに任命された。父王の後継者としての教育と騎士教育を受け、早くから軍事指揮を担当するようになった。1348年には新設されたガーター勲章(Order of the Garter)の創設メンバーにも名を連ねた。

軍歴と戦績

エドワードは父に従ってフランス戦線で活躍した。1346年のクレシーの戦いでは英軍の重要な一員として戦い、同年のカレー包囲戦(Calais)にも参加してその維持に貢献した。1355–1356年の一連の遠征(いわゆるchevauchée)では、俊敏な機動戦により多くの地域を荒廃させ、1356年のポワティエの戦いでは実際に指揮を執り、フランス王ジャン2世を捕虜とする大勝利を収めた。この勝利は英仏関係に大きな影響を与え、エドワードの軍事的評価を決定づけた。

統治と行政

戦時だけでなく行政面でも重要な役割を果たした。彼はアキテーヌ(ガスコーニュ)などの領域で総督として統治にあたり、現地の支配体制や財政管理に関与した。戦利品や歳入の管理、封建的支配の再編などを通じ、英王権の大陸での基盤を強化しようとした。

家族と私生活

1361年にいとこのジョーン・オブ・ケントと結婚した。二人の間には長男のエドワード(Edward of Angoulême)と次男のリチャード(後のリチャード2世)が生まれたが、長男は幼くして夭折した。長男の死後、次男リチャードが後継者として育てられ、父の死後に王位を継承することになる。

「黒太子」という呼び名

エドワードは歴史上「黒太子(Black Prince)」の名で呼ばれるが、その呼称の由来は明確ではない。金属製の黒い鎧や盾の色、戦場での黒い旗、あるいは死後の棺飾りや記念碑に由来するとする説など諸説ある。確かなのは、あくまで通称であり当時の正式な称号ではないという点である。

晩年と死後の評価

戦役を重ねる中でエドワードは晩年にわたり健康を損ない、長年にわたる病気に悩まされた。1376年に45歳で没し、カンタベリー大聖堂に埋葬された。父エドワード3世が健在であったため、彼自身は王に即位することはなかったが、息子リチャードは父の死後に王位を継承してイングランド王リチャード2世となった。

遺産

黒太子は中世英王室の中でも特に伝説化された人物の一人である。軍事的成功と騎士道的イメージ、そして悲劇的な早逝が組み合わさり、文学や後世の史書で盛んに取り上げられた。彼の行動は当時の国際政治、特に英仏関係と王権の在り方に大きな影響を与えた。

英国王位継承者である黒太子の紋章。Zoom
英国王位継承者である黒太子の紋章。

カンタベリー大聖堂のエドワードの墓の上のエフィジーZoom
カンタベリー大聖堂のエドワードの墓の上のエフィジー


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