アントワープ公ライオネル(クラレンス公初代、1338–1368)—エドワード3世の三男・アルスター伯

アントワープ公ライオネル(クラレンス公・アルスター伯)の生涯と政略、キルケニー法導入や王家への影響を詳述

著者: Leandro Alegsa

アントワープ公 ライオネル(クラレンス公初代、1338–1368)は、エドワード3世の三男としてアントワープで生まれた(1338年11月29日 - 1368年10月7日)。幼くして婚約し、アルスター3世伯ウィリアム・デ・バーグ(1332年没)の娘であるエリザベス・デ・バーグ(1363年没)と結婚することになった。二人の婚儀は形式的には1342年8月15日にロンドン塔で行われたが、実際に正式な婚姻関係が整ったのは後年で、ライオネルが成長してからであった。妻エリザベスの所領にはアイルランドの広大な土地が含まれており、ライオネルはそれらの権利を通じてアイルランドに関わることになる。なお、有名な詩人のジェフリー・チョーサーは当時、エリザベスのページを務めていたと伝えられている。

ライオネルは、妻を通じてアルスター伯の地位を得(事実上のアルスター伯として扱われ)、王の代理としてイングランドの利益を代表した。1350年代から1360年代にかけてはアイルランド統治に深く関与し、1361年にはアイルランド総督(王の代理)としてダブリンに赴任した。1362年には父エドワード3世によりクラレンス公爵(第1代)に叙される。父王は一時、ライオネルを外交的・軍事的に重要な位置につけることでスコットランドや周辺諸国への影響力を強めようと考えたことが記録に残る。

アイルランドでの統治に際して、ライオネルとダブリン行政は、英領アイルランドのイングランド系入植者(アングロ=イングリッシュ)が現地のアイルランド人と文化的に同化していくことを問題視した。そうした背景から1366年に成立したのが、彼が導入を促したとされるキルケニー法という一連の規定である。これらの規定は、英領アイルランド内での同化を防ぐべく、英系住民に対してさまざまな行為を禁じた。

キルケニー法の主な禁令(要旨)

  • イングランド人がアイルランド人と結婚することの禁止
  • アイルランド方式による育児・養子縁組(fosterage)を行うことの禁止
  • アイルランド語やアイルランド風の氏姓・名称を用いることの禁止
  • アイルランド風の服装を採用することの禁止
  • アイルランドの法(ブレイヴォン法)や習慣を取り入れることの禁止
  • アイルランドの民族音楽や伝統的な楽器の演奏を公に行うことの制限

これらの施策にもかかわらず、アイルランド統治は難航し、ライオネルは1367年にイングランドへ戻った。現地での反発や統治資源の限界、入植者と先住民の複雑な関係などが、その理由として挙げられる。

私生活では、最初の妻エリザベスの死後、ライオネルは1368年6月にミラノでパヴィア公ガレアッツォ・ヴィスコンティ(Galeazzo Visconti)の娘ヴィオランテと結婚した。イタリア滞在中に病に倒れ、1368年10月7日にピエモンテ地方のアルバで没した。享年は29歳前後で、遺骸はイングランドのサフォーク州にあるクレア修道院(Clare Priory)に埋葬された。

子女としては、特に娘のフィリッパ・プランタジェネットが知られている。フィリッパは1368年に第3代マーチ伯エドマンド・モーティマー(Edmund Mortimer, 3rd Earl of March, 1351–1381)と結婚し、その子孫は後にヨーク家の王位請求の根拠の一部となった。結果的に、ライオネルは後代の王であるエドワード4世の先祖の一人となった。

ライオネルの短い生涯は、王家の次男としての外交・領地確保の役割、アイルランド統治における英王室の苦闘、そしてプランタジネット家の血筋を通じた後世への影響を伝えている。

アントワープのリオネルの紋章Zoom
アントワープのリオネルの紋章



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