テーベ(古代エジプトの都市)—ナイル東岸の古都ワセトの歴史と概要
テーベ(ワセト)の歴史と概要を分かりやすく解説。ナイル東岸に栄えた古代都市の起源、王墓・神殿、文化と遺跡を写真付きで紹介。
テーベ(Θῆβαι, Thēbai)は、古代エジプト、地中海の南約800km、ナイル川東岸(°)にあった都市である。上エジプト第4ノームのワセトの首都であった。
概略
テーベ(古代エジプト語: ワセト / Waset)は、紀元前のエジプト史において政治・宗教・文化の中心地として長期間にわたり繁栄した都市である。特に中王国(約紀元前2055–1650年)以降、そして新王国(約紀元前1550–1070年)には事実上の首都となり、多くのファラオがここで政治を行い巨大な神殿群や宮殿を築いた。東岸には神殿や行政施設、西岸には葬祭・埋葬地(死者の町)が広がり、両岸合わせて古代の都市景観を形成していた。
宗教と文化
テーベは神アモン(Amun、後にアモン=ラーとして崇拝)の主要な礼拝地であり、カルナック神殿群を中心とした宗教活動が盛んだった。神職層の権力は非常に強く、神殿経済によって土地や富が集積されたため、政治的影響力も増大した。芸術・建築面では、新王国期にかけて巨大なオベリスク、ラメセウムのような王の葬祭殿、壁画や石碑に見られる精緻な彫刻などが生まれ、エジプト文明の頂点を象徴する遺構が多数残された。
主な遺跡
- カルナック神殿群(東岸)— アモン神殿を中心とする複合宗教施設で、列柱室(ハイ・プロソエム)、巨大オベリスク、祭儀用通路などを含む。
- ルクソール神殿(東岸)— 王の正式な即位や祭礼に用いられた神殿で、アメン・ラーや王の神格化に関わる建築が残る。
- 王家の谷(西岸)— 新王国期の王墓群が集中する地域で、ツタンカーメンやラムセス王朝の多くの墓が発見された。
- デイル・エル=バハリ(西岸)— ハトシェプスト女王の葬祭殿など、斬新な階段式の建築が見られる。
歴史的役割と変遷
テーベは古代エジプトの歴史を通じて浮沈を繰り返したが、中王国での再統一(メントゥホテプ2世など)以降、政治的中心としての地位を確立した。新王国期にはトトメス朝・アメンホテプ朝・ラムセス朝などの強力な王たちがここを拠点とし、近隣諸国との軍事・外交活動もここから展開された。後にギリシア・ローマ時代には「テーベ(Thebai)」という名で知られ、ローマ時代以降は衰退や破壊、再利用を経て現在のルクソール市へと繋がる地理的・文化的継承が残る。
発掘と保存
19世紀以降、多くの考古学的発掘が行われ、王墓や神殿のレリーフ、文書類が発見された。20世紀〜21世紀にかけては保存・修復の取り組みが続いているが、観光開発、都市化、気候変動、地下水位の上昇などが遺跡保存の課題となっている。現在のルクソール地域は主要な観光地であり、遺跡群は1979年にユネスコの世界遺産(「古代テーベとその墓地」)として登録されている。
名称と伝承
古代エジプト語のワセト(Waset)はのちのギリシア語でΘῆβαι(Thēbai)として記録され、西方世界ではテーベの名で広く知られるようになった。現代の街はルクソール(Luxor)と呼ばれ、アラビア語ではالْأُقْصُر(al-Uqsur、「宮殿群」の意)とされる。テーベは宗教的・政治的伝承や多くの遺物を通じて、古代エジプト文明を理解する上で欠かせない存在である。
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