外相理事会(ポツダム協定)とは|1945年設立の英ソ中仏米による平和条約機関
外相理事会(Council of Foreign Ministers)とは、第二次世界大戦末期の1945年に開催されたポツダム会議で合意され、ポツダム協定で公式に設立が発表された国際的な協議機関です。参加は英国、ソビエト連邦(当時)、中国(中華民国)、フランス、米国の外相で構成され、戦後処理と平和条約の作成を目的に設けられました。
背景と設立の趣旨
第二次世界大戦終結に際して、敗戦国との平和条約作成や未解決の領土問題の処理、戦後秩序の確立が急務でした。ポツダム協定は、主要連合国の外相が定期的に集まって協議し、これらの問題を協調して処理するための常設的な枠組みとして外相理事会を設けることを定めています。会議の開催地は通常ロンドン(ランカスターハウス)とされ、当初は設立直後に早期開催が予定されていました。
主な権限・任務
- 平和条約の起草・調整:イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドに対する平和条約を起草し、加盟国間で合意を図ること。
- 領土問題の解決提案:ヨーロッパに残る未解決の領土問題や国境問題について、解決案を提案すること。
- ドイツに関する最終処理準備:「目的に適った政府(a government suitable for the purpose)」が樹立された際に受け入れられるような、ドイツに対する和平協定の準備を行うこと。
- 国際的協調の場提供:連合国間の政策調整と外交的対話の継続的な場を提供すること。
活動と成果
外相理事会は戦後まもなく会合を重ね、連合国間での法的・政治的調整に一定の役割を果たしました。具体的な成果としては、1947年のパリ講和条約(イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドに関する条約)の成立に向けた外交的調整が挙げられます。一方、ドイツ問題については冷戦下の東西対立により、最終的な平和条約の締結には至らず、ドイツ統一と最終的地位の解決は1990年の「ドイツ再統一に関する最終文書(いわゆる二プラスフォー条約)」まで持ち越されました。
制約と歴史的意義
- 冷戦の影響:1940年代後半以降、米英仏とソ連の対立が深まり、外相理事会はしばしば意見対立や行き詰まりに直面しました。これにより、特にドイツ問題での合意形成は困難を極めました。
- 加盟国間の力関係の変化:中国(当時の中華民国)は理事会に名を連ねたものの、実務面での影響力は限定的であり、フランスは後から五大国の一員としての地位を確立しました。
- 長期的意義:外相理事会は戦後国際秩序の形成過程で重要な外交フォーラムとなり、平和条約作成や領土問題の平和的解決のための枠組みを提供しました。冷戦の影響にもかかわらず、国際協議の慣行や法的整理に寄与した点は評価されます。
参考と余談
外相理事会は当初の期待どおりにすべての戦後問題を迅速に解決することはできませんでしたが、1940〜50年代の国際外交史を理解する上で重要な機関です。特に、パリ講和条約やドイツの最終地位に至る過程をたどる際の出発点となります。
関連用語:ポツダム協定、ポツダム会議、パリ講和条約、二プラスフォー条約(ドイツ再統一関連)
質問と回答
Q: 外相理事会とは何ですか?
A: 外相理事会は1945年のポツダム会議で合意され、ポツダム協定で発表された組織です。
Q:外相理事会のメンバーは誰ですか。
A: 外相理事会は、イギリス、ソビエト社会主義共和国連邦、中国、フランス、アメリカの外相で構成されました。
Q:外相理事会はどこで開かれることになっていたのですか?
A:外相理事会は通常、ロンドンのランカスター・ハウスで開かれることになっていました。
Q:外相理事会に与えられた最初の任務は何でしたか?
A:外相理事会に与えられた最初の任務は、イタリア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランドとの和平条約を作成することでした。
問:外相理事会には他にどのような任務が与えられていたのですか。
答:外相理事会は、ヨーロッパにおける戦争終結の際に未解決の領土問題の解決を提案する権限を与えられていました。
問:外相理事会はドイツに対して何を準備することになっていたのですか。
答:外相理事会は、「その目的にふさわしい政府」が樹立されたときに受け入れられるよう、ドイツに対する和平解決を準備することになっていた。
問:外相理事会の最初の会合はいつ開かれることになっていたのですか。
A: 最初の外相理事会は1945年9月1日までに開催されることになっていました。