徳寿宮(デクスグン)とは:ソウルの朝鮮王朝宮殿の歴史と変遷
徳寿宮(デクスグン)の創建から近代までの歴史、王室の変遷と植民地期の影響を写真と地図で詳解。ソウルの王宮文化をわかりやすく紹介。
徳寿宮は朝鮮王朝時代の五大宮殿の一つで、現在のソウル中心部(ソウル特別市中区)に位置する歴史的な宮殿庭園です。規模は他の宮殿に比べて小さいものの、伝統的な韓国建築と近代的な西洋建築が混在する点で特徴的で、観光地としても人気があります。
成立と戦乱による変遷
1592年に日本軍が朝鮮に侵攻した(壬辰倭乱/文禄・慶長の役)際、宣祖(ソンジョ)は漢陽(現在のソウル)から義州(ウイジュ)へ避難しました。戦争終結後に汉陽へ戻ったものの、戦禍で景福宮(キョンボックン)や昌徳宮(チャンドックン)、昌慶宮(チャンギョングン)など主要な宮殿が焼失し、即位後の居所に困ることになりました。
現在の徳寿宮の敷地には、もともと成宗(ソンジョン)の兄であるウォルサン大君(ウォルサンデグン)の邸があったとされ、そこを王の仮の滞在地として用いたのが始まりと伝えられます。
慶雲宮(경운궁)への改称と政治的影響
宣祖の後を継いだ光海君(クァンヘグン)はこの宮を慶雲宮(キョングン:경운궁)と改名し、しばらく王の第二の居所として用いました。この時期、宮中の権力争いの影響で、仁穆王后(インモク王太后)はここに幽閉され、そのため西宮(ソグン:서궁)と呼ばれるようになったこともあります。のちに光海君が失脚した後、宮は元の所有者に戻された時期もあり、何度か所有・用途が変わりました。
高宗時代と近代化
19世紀末、朝鮮王朝末期の高宗(コジョン)は政権を回復し、この宮を再び居所として使用しました。高宗はここを再度慶雲宮とした後、さらに整備を進め、やがて徳寿宮(トクスグン)と称されるようになりました。高宗は宮内に電灯など近代的設備を導入し、西洋風建築を取り入れるなど宮殿の近代化を進めました。代表的な西洋建築としては石造の洋館「석조전(Seokjojeon:石造殿)」があり、当時の近代化の象徴となっています。
高宗はのちに皇帝号を名乗るなど朝鮮の近代化と対外的な地位向上を図りましたが、政治的圧力や外勢の介入により状況は複雑化しました。高宗は息子の純宗(スンジョン)に皇位を譲った後も、しばらく徳寿宮に留まったことが知られています。
日本統治時代とその後の復元
1910年から1945年までの日本の植民地支配期には、王宮としての機能が大幅に制限され、宮殿の一部は破壊され、敷地の一部が公共の公園や行政施設に転用されました。植民地期に失われた建物もありますが、近年は史跡としての保存・復元が進められ、往時の景観を再現する努力が続けられています。
建築と見どころ
- 伝統建築と西洋建築の共存:韓国の伝統的な木造建築(殿堂・門)と、石造の洋館(Seokjojeon)などが同一敷地内で見られる点が特徴です。
- 徳寿宮石垣道(돌담길):周囲の石垣沿いの散策路は、ソウルの人気の散歩コースになっています。
- 王宮守門交代式(衛兵交代儀礼):観光客向けに再現された朝鮮時代の守門交代式が定期的に催され、伝統衣装や儀礼を間近に見られます。
- 博物館・展示施設:宮殿内には歴史や文化を紹介する展示があり、王朝末期から近代にかけての歴史を学べます。
現在の利用とアクセス
現在、徳寿宮は史跡・観光地として一般公開されており、ソウル市庁(市役所)周辺に位置するためアクセスが良好です。庭園散策や歴史学習、伝統行事の見学ができ、四季折々の風景も楽しめます。保存・復元事業は今も続いており、ソウルに残る王宮文化の重要な拠点の一つです。
徳寿宮は、朝鮮王朝史だけでなく、近代化と植民地化という近代朝鮮の激動の歴史を映す場所でもあります。訪れることで、伝統と近代が交差する独特の景観と歴史の流れを感じ取れるでしょう。
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徳寿宮
質問と回答
Q: 徳寿宮とは何ですか?
A: 徳寿宮は、朝鮮王朝時代の五大宮殿の一つです。
Q:宣祖はなぜ徳寿宮に住んだのですか?
A:宣祖が徳寿宮に住んだのは、戦乱で宮殿がすべて焼失し、他に宮殿がなかったからです。
Q:徳寿宮はもともと誰が所有していたのですか?
A:徳寿宮は、もともと成宗の兄である月山大君が住んでいたところです。
Q: 光海君(クァンヘグン)はこの宮殿を何に改名したのですか?
A:光海君(クァンヘグン)は宮殿を慶雲(キョンウン)宮殿と改名しました。
Q: 宮に幽閉されていたのは誰で、何に改名されたのでしょうか?
A:仁徳天皇皇太后が幽閉され、西宮と改名されました。
Q:徳寿宮が元の所有者に戻された後、誰が住んでいたのですか?
A:元の持ち主に戻った後、高宗が徳寿宮に住んでいました。
Q:日本が植民地支配している間、徳寿宮はどうなっていたのですか?
A: 1910年から1945年までの日本の植民地支配の間に、宮殿の建物は破壊され、公共の公園として整備されました。
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