1935年のインド政府法は、1935年8月に英国議会で可決された法律で、全321のセクションと10のスケジュールから成る、当時英国議会で可決された中で最も長大な法典でした。後にこの法は、インド本土部分を規定するインド政府法(Government of India Act, 1935)と、ビルマに関する規定を切り離したビルマ政府法(Government of Burma Act, 1935)の二つに分割されました。

成立の経緯

この法律は、主に以下の四つの重要資料と議論を土台に作成されました:

  • サイモン委員会の報告書(1928年頃の調査と勧告)
  • 第3回円卓会議での討議(Round Table Conferences)
  • 1933年に発表された政府の白書
  • 合同特別委員会の報告書

背景には、第一次世界大戦後から続くインドの自治要求と英国側の漸進的改革方針があり、1919年のインド政府法で導入された「二重構造(dyarchy)」制度への不満・限界が批判されていました。これを受け、1935年法は二重構造を大幅に見直し、より広い自治と新たな制度設計を試みました。

主な内容(要点)

  • 連邦の構想:英領インドの州(provinces)と一部または全部の藩王国(princely states)を含むインド連邦の設立を規定しました。ただし、多数の藩王国が参加を拒否したため、この連邦は実際には成立しませんでした。
  • 州の自治拡大:州レベルでは従来の二重構造を廃止し、多くの分野で州政府の責任(provincial autonomy)を拡大しました。州議会に対して責任を負う内閣制が導入され、選挙で選ばれた省政府(provincial ministries)が実務を担当しました。
  • 総督の権限と留保事項:とはいえ、総督(Governor)には強い留保権(reserved subjects)や非常時の広範な権限が残されており、総督は一定の分野で内閣の決定を拒否したり直接統治したりすることができました。
  • 中央政府の権限:国防、外交、通商、諜報、通貨などの重要分野は中央(中央政府)に留保され、連邦議会(Federal Legislature)は二院制(連邦議会/Council of State)を持つことになりました。
  • 藩王国(princely states)に関する規定:藩王国は連邦への参加を「オプション」とされ、参加は各君主の自由意志に委ねられました。この扱いが連邦不成立の主因の一つでした。
  • 司法制度と連邦裁判所:連邦裁判所(Federal Court)の設置と司法権限の整理が行われ、最高裁に相当する仕組みが導入されました。
  • 選挙制度と有権者拡大:選挙制度の改革により有権者層は拡大しましたが、制限選挙や特別選挙区(宗教別・職業別などの選挙区)も残り、万能の普通選挙には達していませんでした。
  • スケジュールと詳細規定:法は321条から成り、10のスケジュールにより行政・財政・司法の細目を定めています。

ビルマの分離と継続性

この法律は、ビルマ(現在のミャンマー)を英領インドから分離する措置を含んでおり、英領インドの最後の包括的な英領インドに関する憲法的枠組みでした。施行後も多くの規定はその後の国際情勢や独立までの間に部分的に適用され、1947年に英国領がパキスタンインドに分割されるまでの間、行政と政治の基盤として機能しました。

歴史的意義と評価

  • 長所:州政府の自治拡大や司法制度の整備など、インドにおける近代的行政体制の発展に寄与しました。法の詳細な規定は、独立後のインドおよびパキスタンの憲法設計に影響を与えました。
  • 短所・批判:藩王国参加が任意であったこと、総督の強権や留保事項が残存したこと、宗教別選挙や制限選挙が継続したことから、インド国民側(特に国民会議派など)は不十分と見なしました。結果的に、全国的次元での真の主権移譲は実現しませんでした。
  • 政治的影響:法が提示した連邦構想の不成立は、独立運動の方向性に影響を与え、最終的には植民地支配からの全面的な独立(1947年)へとつながる過程に寄与しました。

その後の経過

連邦設立の失敗と第二次世界大戦、戦後の民族運動の高揚を経て、同法の多くの規定は1947年の独立・分割(インドとパキスタンの誕生)により実質的に終焉を迎えました。ただし、行政手続きや司法・地方自治に関する制度設計の多くは独立国の法制度に引き継がれ、インド憲法起草の際にも参照されました。

総じて、1935年のインド政府法は「部分的な自治の拡大」と「依然として残る植民地主義的統制」が同居した妥協的な法であり、その成果と限界はインド近代政治の重要な一章を成しています。