ハインリッヒ・レッチューリー(1887年1月5日ウィーン生、1944年6月11日没)は、オーストリアのサッカー選手、審判員、指導者として長くサッカー界に関わった人物です。現役選手としてはファーストウィーンFCでディフェンダーを務め、またオーストリア代表にも選ばれました。
選手としての経歴
レッチューリーは主にディフェンダー(守備)としてプレーし、クラブではヴィルヘルム・アイペルダウアーとともに堅固な守備ラインを築きました。オーストリア代表では通算5試合に出場しました。代表初出場はトランスライタニアン(当時のオーストリア=ハンガリー帝国におけるハンガリー代表に相当)戦で、4–0の勝利を記録しています。代表最後の試合は1909年6月1日のイングランド戦で、チームは1–8で敗れました。1912年ストックホルムオリンピックの代表メンバーにも選出されましたが、大会では出場機会はありませんでした。
レフェリーとして
選手引退後、レッチューリーは審判員(レフェリー)に転身し、国際的にも活躍しました。特に1924年のパリオリンピックでは審判として計3試合を担当しています。大会での主な担当試合は次の通りです。
- 準決勝:ウルグアイ – オランダ 2:1
- 第1回ブロンズメダルマッチ(決定戦):オランダ – スウェーデン 1:1
- 第2回戦:スウェーデン – ベルギー 8:1
国内においても、オーストリアのリーグ戦やカップ戦で数多くの公式戦を裁き、当時の審判界を代表する一人として評価されました。
指導者として(代表監督)
第一次世界大戦中、当時の代表監督であったユーゴ・マイズルが軍務に就いたため、レッチューリーが代表チームの指揮をとる期間がありました。その在任期間中の記録は22試合で、8勝3分11敗という成績でした(記録は当時の公式記録に基づくものです)。
さらに1937年、ヒューゴ・マイズルの死去を受けて再び代表監督に就任し、5試合を指揮して2勝1分2敗の戦績を残しました。この時期にチームは1938年のFIFAワールドカップ出場権を獲得しましたが、その直後に起きたドイツによる併合(アンシュルス)により、オーストリア代表は大会へ出場できませんでした。
評価と遺産
レッチューリーは選手・審判・指導者という三つの立場で国内外のサッカー界に貢献した希有な人物です。守備的な選手としての実績に加え、国際大会での審判活動や代表チームの指導を通じて、その知識と経験を次世代に伝えました。彼の経歴は当時のオーストリアサッカー史を理解するうえで重要な一部となっています。