William Hodgson "Hod" Stuart(1879年2月20日~1907年6月23日)は、カナダのプロアイスホッケーのポイント(当時の呼称で、現在のディフェンスマンに相当)として活躍した選手です。現役生活は短いながらも強い印象を残し、複数のリーグで9シーズンにわたってプレーしました。また、オタワのフットボールチーム「ラフ・ライダース」で短期間プレーしたこともあります。兄のブルース・スチュアートとともに、北米におけるプロ化初期の波に乗り、アイスホッケーの最初期のプロリーグであるインターナショナル・プロフェッショナル・ホッケー・リーグ(IPHL)でも活躍しました。
経歴と活躍
スチュアートは、当時の複数リーグでプレーし、攻守両面で高い評価を受けました。特に1906〜1907年シーズンには、モントリオール・ワンダラーズの主力ディフェンダーとしてチームの守備を支え、1907年のスタンレー・カップ優勝に大きく貢献しました。彼はスケーティング技術、パックコントロール、ゲーム読みの鋭さで知られ、当時「最高のディフェンダー」の一人と評されていました。
プレースタイルと評価
当時の「ポイント」は現在のディフェンスと似た役割を担い、スチュアートは攻守に渡ってチームに貢献しました。鋭いパス供給や長距離からの強いシュート、対人守備での安定感が特徴で、同世代の選手や報道から高い評価を受けました。そのプレーぶりは、プロ化が進むホッケー界でのディフェンスの重要性を示す先駆的な例とされています。
1907年の優勝と急逝
1907年にワンダラーズとともにスタンレー・カップを獲得した数か月後、スチュアートは不幸にも水泳・ダイビング中の事故で命を落としました。若くして逝去したことはホッケー界に大きな衝撃を与え、当時のチームやファンから深い哀悼が捧げられました。
オールスターゲームと遺族支援
彼の死後、ワンダラーズはスチュアートの遺族への寄付を募るために追悼試合を開催しました。この試合は史上初期の「オールスター」的な試合として位置づけられることが多く、多くの選手や観客が集まり遺族を支援しました。こうした試みは、後のホッケー文化におけるチャリティーマッチやオールスター大会の先駆けとも見なされています。
殿堂入りと遺産
1945年にホッケーの殿堂(Hockey Hall of Fame)が創設された際、スチュアートは最初に殿堂入りした選手の一人(当時の最初の12人のうちの1人)に選ばれました。彼の弟ブルースも後に1961年に殿堂入りしており、スチュアート兄弟はカナダ初期のホッケー史における重要人物として記憶されています。短いキャリアながらもスチュアートが残した影響は大きく、ディフェンスの役割やプロホッケーの発展に寄与した先駆者として高く評価されています。