古代アルメニア王国とは|紀元前331年〜428年の歴史と概要
紀元前331年〜西暦428年の古代アルメニア王国の成立、ティグラネス2世期の繁栄、領土変遷と文化を分かりやすく紹介。
古代アルメニア王国は、紀元前331年から西暦428年まで独立した君主制国家であった。王国が最も力を持っていた頃は「アルメニア帝国」とも呼ばれていた。領域は時期によって変動したが、アナトリア東部、現在のアルメニア高地、コーカサス南部にまたがり、周辺の大国(ローマ・ペルシアなど)と継続的に関係・対立した。
成立とヘレニズム期
古代アルメニアの政治的変化は、ペルシア系の強大な王朝やギリシャ世界の興隆と密接に結びついている。まず、アケメニド帝国滅亡後、アルメニアの旧サトラピーは複数の氏族(ナハラル)に分かれ、地域的な有力者が力を持つようになった。さらに、アレクサンダー大王の東方遠征による影響の下で、ヘレニズム的なギリシャの文化と政治が流入した。
その後、ヘレニズム世界の後継国家であるセレウキド帝国の衰退を受け、紀元前190年頃にアルタクシアス1世(アルタクシアスI、Artaxias I)らによってアータキア朝(アルタクシアード朝/アルタキア朝に相当する王朝)が樹立され、独自の王国が確立された。以後、アルメニアはギリシャ文化の影響を受けつつも独自の政治・社会構造を発展させていった。
最盛期と外征
王国が最も勢力を誇ったのは、ティグラネス2世(Tigranes II)の時代で、しばしばこの時期の領域を「アルメニア帝国」と呼ぶ。彼の支配下で領土は拡大し、地中海から北東のクラ川(現トランスコーカサス方面)に至る広大な地域に影響を及ぼした。だがこの拡張はローマなど周辺大国との衝突を招き、最終的にはローマの圧力で縮小することとなる。
ローマ・ペルシアとの関係と王朝交代
紀元前1世紀になると、アルメニアはローマとパルティア(後のペルシア)による勢力争いの舞台となる。政治的にはしばしばローマ側の勢力圏に入ることがあり、紀元前66年には一時的にローマ帝国の影響下に置かれた。ローマとペルシア(パルティア→サーサーン朝)の間で王位の支持が行き来し、王朝も交替を繰り返した。
1世紀中頃以降、国内の政情不安と外圧によりアルタクシアード(アルタキア朝)の地位は弱まり、ローマ介入や内紛を経て、AD 54年以降は支配層にアルサシド朝に(アルサケス朝、アルサシド系の傀儡・有力な王家)が強い影響力を持つようになった。こうした状況は、アルメニアの外交・内政がローマとペルシアの均衡の下に置かれる構図を生んだ。
分割と滅亡
4世紀末、ローマ(東ローマ帝国=ビザンティン)とサーサーン朝ペルシアの協定により、AD 387年にアルメニアは西のビザンチン支配下の領域と東のペルシャ・アルメニアに分割された。東側ではアルサシド朝の王が名目上の支配者として残ったが、次第にサーサーン朝の直接支配や行政支配が強まった。そして最終的にAD 428年にアルサシド朝のクライアント王制は廃止され、古代アルメニア王国は終焉を迎えた。
言語・文化・宗教の発展
紀元前2世紀頃から、現在のアルメニア高地(ナゴルノ=カラバフを含む)に住む人々の間でアルメニア語が広く使用されていた。これは現代のアルメニア人がその話者の子孫であることを示している。また、ヘレニズム文化、ペルシア文化、ローマ文化など多様な影響を受けながら、アルメニア独自の貴族制度(ナハラル)や王権、法制が形成された。
宗教面では、伝統的な多神教的要素が長く残る一方、4世紀にキリスト教が国教として受け入れられたことが大きな転換点となる。伝統的な年代記によればAD 301年に国教化されたとされ(学術的には4世紀前半に国教化されたとする説もある)、これによりアルメニア独自の教会(アルメニア使徒教会)が成立し、民族意識の統合が進んだ。文字面では、AD 405年にメスロプ・マシュトツ(Mesrop Mashtots)によってアルメニア文字が創出され、聖書や教会文書の翻訳を通じて文化的自律性が強化された。
社会と行政
- 貴族(ナハラル)と王権:大土地所有と部族的な貴族勢力が政治の中核を占め、王はこれら貴族との協調・対立のうえで統治を行った。
- 都市と交易:アルタクシア(アルタシャト)、ティグラネケルト(ティグラノケルト)などの都市が政治・経済の中心となり、東西交易の中継地としても重要であった。
- 文化交流:ギリシャ語、ペルシア語、アラム語などが学問・行政で用いられ、アルメニア独自の文学や宗教文書の基礎が形成された。
年表(主な出来事)
- 紀元前331年頃 — アレクサンドロスの征服以降の変動期(王国成立の起点とする説あり)
- 紀元前190年頃 — アルタクシアス1世らによるアルタクシア朝(アルタキア朝)成立
- 紀元前1世紀 — ティグラネス2世の下で最大領域を達成(「アルメニア帝国」と称される期)
- 紀元前66年 — 一時的にローマ帝国の影響下に入る
- AD 54年以降 — アルサシド朝に影響される時代へ
- AD 301(伝統年代)〜4世紀前半 — キリスト教を国教化、教会組織の形成
- AD 387年 — 西(ビザンチン)と東(ペルシャ・アルメニア)に分割
- AD 405年 — メスロプ・マシュトツによるアルメニア文字の創出
- AD 428年 — 古代アルメニア王国(アルサシド系王のクライアント政権)の終焉
古代アルメニア王国は、地理的に西アジアとコーカサスの接点に位置したため、各種文化と勢力が交錯する場となり、独自の民族意識・宗教・文字を形成していった。その歴史的遺産は、中世以降のアルメニア王国や民族文化に深い影響を残している。
質問と回答
Q:アルメニア王国の名称は何でしたか?
A:アルメニア王国です。
Q:どのように呼ばれることがあるか?
A:アルメニア帝国と呼ばれることもあります。
Q: 古代近東ではいつごろまで支配していたのか?
A: 紀元前321年から紀元428年までです。
Q: その歴史上、いくつの王族が統治した?
A: オロンティッド朝(紀元前321年〜紀元前200年)、アルタクシアード朝(紀元前190年〜紀元後12年)、アルサチード朝(紀元後52年〜紀元後428年)の3王朝が支配していました。
Q: アルメニアで最初に統治した王朝は?
A: アルメニアで最初に統治したのはオロンティッド朝で、紀元前321年から紀元前200年まででした。
Q: アルメニアを最後に支配した王朝は?
A: アルサカイト朝が、西暦52年から428年まで、アルメニアを支配した最後の王朝です。
Q: 古代アルメニアでは何語を話していたのですか?
A: 古代アルメニアではアルメニア語を話していた。
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