1922年のオーストラリア自由党(自由連合)—ヒューズ分裂の経緯
自由党(Liberal Party)、または自由連合(Liberal Union / Liberal Union Party)は、オーストラリアの短命な政党グループで、主にビクトリア州と南オーストラリア州を拠点に1922年前後に活動しました。党は当時の首相であるビリー・ヒューズ(首相)を支持しない一部のオーストラリア国民党(Nationalist Party)のメンバーによって結成され、ヒューズ派と国民党本流との亀裂を象徴する存在でした。
背景
第一次世界大戦後の政治環境では、戦時中の政策やヒューズ個人の強硬な指導姿勢を巡り、党内に不満が蓄積していました。1920年代初頭には、新たに台頭した農村保守派の勢力(後のカントリーパーティ)が国政で独自の影響力を行使し始め、連立や首相の指導力を巡る駆け引きが激化しました。こうした中で、国民党内部の分派が結成され、1922年に「自由党/自由連合」として結実しました。
結成と主要人物
自由党は、ビクトリア州で活動していたトーマス・アシュワースとチャールズ・メレットという二人の発起人によって始められました。連邦議会では、既存の国民党議員から二名が自由党側に加わりました:ビクトリア州選出のウィリアム・ワットと、南オーストラリア州選出のリチャード・フォスターです。これらの合流により、自由党は連邦議会において一定の存在感を示しました。
1922年連邦選挙と議席獲得
1922年の連邦選挙では、自由党の名義でさらに数名の当選者が出ました。具体的には、ビクトリア州のジョン・レイサム(John Latham)、および南オーストラリア州からマルコム・キャメロンとジャック・ダンカン=ヒューズが当選し、自由党系議員は合計で複数の議席を確保しました。これらの当選は、国民党の内部対立が選挙結果にも影響を与えたことを示しています。
政局の変化とその後
一方で、新たに勢力を増した国粋党(Country Party、いわゆるカントリーパーティ)がヒューズの指導する政権を支持しない姿勢を鮮明にしたため、ヒューズは首相の座を退く決断を迫られました。最終的にヒューズは退陣し、政権はスタンリー・ブルースに託されることになります(1923年初頭の出来事)。
その後、自由党に属していた議員の多くは再び国民党側へと戻っていき、1925年までには公式には国民党に再入党した者が多数を占めました。自由党自体は短命であったため、長期的な政党基盤を築くことはできませんでした。
意義と歴史的位置づけ
1922年の自由党/自由連合は、第一次大戦後のオーストラリアにおける党内分裂と連立政治の難しさを象徴する事例です。また、このグループは後の政治勢力再編や、カントリー系勢力との駆け引きが政府の首班交代に直接つながったことを示す史実でもあります。なお、本「自由党(Liberal Party / Liberal Union)」は、1940年代にロバート・メンジーズらによって結党された現代の自由党(Liberal Party of Australia)とは別の歴史的存在である点に留意してください。


ジョン・レイサム(自由党所属の政治家
質問と回答
Q:自由党とは何ですか?
A: 自由党は、オーストラリアのビクトリア州と南オーストラリア州を拠点とする政党です。
Q:いつごろ活動していた政党ですか?
A:1922年に主に活動していました。
Q: 自由党は誰が結成したのですか?
A: 自由党は、オーストラリア国民党のメンバーで、党首であるビリー・ヒューズ首相を支持しない人々によって結成されました。ビクトリア州の2人の男性、トーマス・アッシュワースとチャールズ・メレットによって結成されました。
Q: 自由党に参加したのは誰ですか?
A: 2人の連邦国民党議員、ビクトリア州のウィリアム・ワットと南オーストラリアのリチャード・フォスターが自由党に入党しました。1922年の連邦選挙では、さらに3人の議員(ビクトリア州のジョン・レイサム、南オーストラリア州のマルコム・キャメロンとジャック・ダンカン=ヒューズ)が当選しています。
Q: ヒューズの引退のきっかけは何だったのでしょうか?
A: 新党カントリー・パーティーがヒューズの支持を拒否したため、彼は引退を決意し、首相の座をスタンリー・ブルースに託すことにしました。
Q: 自由党は国民党に再入党したのですか?
A: はい、5人の自由党員は1925年まで正式には自由党員でしたが、国民党に再入党しています。
Q: 自由党はどこで活動していたのですか?
A: 自由党はビクトリア州と南オーストラリア州を拠点としていました。