アウラングゼーブの長男 ムハンマド・アザム・シャー — 1707年短期在位のムガル皇帝
ムハンマド・アザム・シャー—アウラングゼーブの長男で1707年短期在位したムガル皇帝。血統と激しい後継争い、ジャジャウの戦いでの最期を詳述。
ムハンマド・アザム・シャーは、ムガル帝国最後の皇帝アウラングゼーブの死去(1707年)を受けて帝位を主張した人物で、父アウラングゼーブの長男である。短期間ながら皇位を名乗り、1707年3月14日から同年6月8日まで在位したとされる。
1657年6月28日に生まれ、母ディルラス・バヌ・ベグムはペルシャのサファヴィー朝系の名門出身であったため、アザム・シャーは父方のティムール朝に加えて母方のサファヴィー朝の血統も引いている。若い頃から父に従って軍事や行政の職務を務め、地方統治や戦闘に関与していた。
アウラングゼーブの死後、帝位を巡って彼と他の王子たちの間で激しい後継争いが起きた。アザム・シャーはすぐに自らを皇帝と宣言して権力掌握を図ったが、異母兄弟のムハンマド・ムアッザム(後のバハードゥール・シャー1世)らも皇位を主張した。こうした争いは同年の夏に決着がつき、両者は軍を率いて対陣した。
最終的に決定打となったのは1707年6月8日のジャジャウ(Jajau)の戦いで、ここでアザム・シャーは撃破され、彼自身とその一部の子息が戦死したと伝えられている。戦いに勝利したムハンマド・ムアッザムが東インドにおける皇位を掌握し、のちにバハードゥール・シャー1世として即位した。
アザム・シャーの短い在位と兄弟間の争いは、ムガル帝国における皇位継承の不安定さを象徴する出来事であり、以後の王朝の衰退を早める一因となったとされる。人物としては父の遺志を継ぎ軍事的な力を背景にした統治を志向していたが、長期的な政権基盤を確立するには至らなかった。
主な年表
- 1657年6月28日 — 誕生(父:アウラングゼーブ、母:ディルラス・バヌ・ベグム)
- 1707年3月14日 — 帝位を主張、短期在位開始(在位期間の表記は史料により差異あり)
- 1707年6月8日 — ジャジャウの戦いで敗北、戦死
注:在位日や一部の系譜・経歴の細部については史料により相違があるため、年表の日付は代表的な記述に基づく。さらに詳しい情報は関連史料や研究書を参照されたい。
参考
1. ↑ Sir Jadunath Sarkar (1925).アウラングジブの逸話。M.C. Sarkar & Sons. p. 21.
百科事典を検索する