ムスタファ・アドリシ(1922頃–2013):ウガンダ副大統領・アミン政権と戦争の経緯
ムスタファ・アドリシの生涯とアミン政権での副大統領時代、疑惑の事故から始まった軍の反乱とウガンダ・タンザニア戦争への経緯を詳述する評伝。
ムスタファ・アドリシ将軍(Mustafa Adrisi, 1922年頃 - 2013年7月28日)は、ウガンダの軍人で、1977年から1978年まで副大統領を務めた。イディ・アミン政権下で重要な地位を占め、当時の軍内外で大きな影響力を持っていた人物である。
生涯と軍歴
ムスタファ・アドリシは1920年代初頭に生まれ、ウガンダの軍に長年所属して昇進を重ねた。アミン政権の下で中核的な将校の一人となり、1970年代後半には国家の安全保障に関する重大な役割を担った。将軍としてのキャリアの詳細や出自に関する資料は限られるが、彼は部族・地域の支持を背景に軍内部で一定の支持基盤を有していたと伝えられている。
副大統領就任と権力関係
1977年に副大統領に任命されたアドリシは、アミンにとって最も信頼できる側近の一人と見なされていた。しかし、アミン政権内部では派閥争いが絶えず、アドリシもまた他の有力将校やアミン本人との間で微妙な力関係に置かれていた。こうした内部対立が後の出来事の背景となる。
1978年の負傷事故と反乱、ウガンダ・タンザニア戦争への発展
1978年、アドリシは不審な自動車事故で負傷したと報じられた。この事故を契機に、アドリシに忠誠を誓う部隊が西ナイル地方(特にアルア〈Arua〉周辺)で反乱を起こす動きを見せた。政権側はこれを重大な脅威とみなし、アミンは反抗した兵士や指導者を追及するため軍を動かした。
アミンは反乱分子が近隣国(主にタンザニア)に逃げ込んだと非難し、国境を越えた追跡と軍事行動を行った。この緊張のエスカレーションが直接的な契機となり、両国間は全面的な武力衝突へと発展した。1978年後半から1979年にかけての一連の戦闘は、最終的にウガンダ・タンザニア戦争(Uganda–Tanzania War)へとつながり、翌年にはアミン政権の崩壊を招いた。
晩年
アミン失脚後、アドリシは政治的に孤立し、公的な舞台から退いた。1990年代後半には西ナイル州アルアで、ウガンダ政府から提供された家で静かに暮らしている姿が報じられた。晩年には地域社会と穏やかに関わり、報道によれば小学校の修了証書(初等教育の資格)を取得するために学び直したというエピソードも伝えられている。
死去と評価
ムスタファ・アドリシは2013年7月28日に亡くなった。享年は約90歳前後と推定される。評価は一様ではなく、支持者からは国家の安定に貢献した軍司令官として記憶される一方、アミン政権の一翼を担った人物として批判的に語られることもある。いずれにせよ、1970年代末のウガンダ政治とウガンダ・タンザニア戦争における重要人物の一人であったことは間違いない。
参考:アドリシの負傷事故とそれに続く反乱・国境紛争が、1978年から1979年にかけての地域情勢を大きく動かした点は、多くの歴史資料で共通して指摘されている。ただし、事故の原因や各勢力の動機については資料間で見解が分かれており、単純な因果関係の断定は慎重を要する。
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