マスタードガスとは 硫黄マスタードの定義・化学性質・歴史と国際規制
マスタードガス(主に硫黄マスタード)は、化学兵器として用いられてきた強力な皮膚・粘膜障害性剤(vesicant、泡立て剤)で、正式にはビス(2-クロロエチル)スルフィド(bis(2-chloroethyl) sulfide、化学式 C4H8Cl2S)と呼ばれる有機化合物です。原文の記述にあるように、化学兵器として用いられ、第一次世界大戦ではドイツ軍が1917年にベルギーのイープス(イーペル、Ypres)近郊で英・加兵士らに使用し、その後も複数の戦線で使われました。日本語では「イペリット(イペリット)」とも呼ばれます(Yperite に由来)。
化学的性質
- 化学名・式:ビス(2-クロロエチル)スルフィド、(ClCH2CH2)2S(C4H8Cl2S)。
- 物理的性状:常温で粘性のある液体。純粋物の融点は約14℃、加熱では約218℃で分解する(沸騰する前に分解することが多い)。低揮発性だが蒸気も有害。戦場や現場で見られるものは黄色~茶色を帯びることがある。
- 臭い:無色・無臭の純物質である場合が多いが、劣化物や混入物によりカラシ(マスタード)やワサビ、ニンニクのような刺激臭を感じることがある。食品のマスタードとは無関係。
- 溶解性・化学反応:水にはほとんど溶けないが、ゆっくりと加水分解してチオジグリコール(thiodiglycol)と塩酸を生じする。求核試薬や塩基と反応しやすく、分子内でサルホニウム様の活性中間体を作ってアルキル化反応を起こす。
作用機序(毒性の仕組み)
硫黄マスタードはアルキル化剤として作用し、DNA、RNA、タンパク質、酵素などの核酸やアミノ酸側鎖をアルキル化(結合)します。特にDNA二本鎖に架橋を作ることで細胞分裂を阻害し、細胞死や変異を引き起こします。このため強い皮膚・眼・気道障害だけでなく発がん性や遺伝毒性も問題となります。
臨床的影響(急性・慢性の症状)
- 潜伏期:曝露直後に強い刺激を感じないことが多く、数時間〜数十時間の潜伏期の後に症状が現れるため危険性が高い。
- 皮膚障害:紅斑、腫脹、激しい疼痛を伴う水疱(びらん・大きな泡)、潰瘍。重度では壊死や瘢痕を残す。
- 眼障害:結膜炎、強い疼痛、角膜潰瘍、重度では角膜瘢痕や視力障害・失明を招く。
- 呼吸器障害:鼻咽頭の灼熱感、咳嗽、喀痰、気管支炎、気管支狭窄、肺炎、慢性的な気管支拡張や肺線維化を来たすことがある。
- 全身影響:大量吸入や重度の皮膚損傷ではショックや二次感染、臓器不全を起こす。遅発的には慢性呼吸器疾患、角膜障害、皮膚癌や呼吸器系のがん増加のリスクが報告されている。
診断・検出
現場では色や臭い、症状経過で疑われるが、確定診断には血中や尿中の代謝物(例:チオジグリコール誘導体)の検出、あるいは曝露物質の採取・分析(GC-MS、LC-MS、化学発色試験など)が用いられる。現代では現場用の速やかな検出器や試薬キット、バイオセンサー等が利用される。
除染と治療
- 即時除染:曝露が疑われたら直ちに汚染衣類を除去し、皮膚を石鹸と大量の水で十分に洗浄する。皮膚に付着した液体を放置すると深刻化するため迅速な対応が重要。
- 化学的中和・除染剤:次亜塩素酸塩(漂白剤)や酸化剤、アルカリによる加水分解が有効であることが知られている(ただし取扱いは危険で、適切な濃度・方法が必要)。吸着剤(フラーズ・アース等)も現場での初期処置に用いられることがある。
- 医療的処置:対症療法が中心。創部ケア(滅菌、疼痛管理、二次感染対策)、眼科的処置、気道管理・酸素投与、必要時は人工呼吸器管理。特効薬はなく、支援療法と合併症対策が重要。
歴史的経緯と戦時使用
硫黄マスタードは19世紀に合成が報告され(原文の通り、1860年にフレデリック・ガスリーらが関与した合成の記録があるほか、早期に類縁化合物が発見されていた可能性がある)、第一次世界大戦で初めて大規模に使用されました。以後も20世紀後半にわたり複数の紛争で使用例が報告されており、特に1980年代のイラン・イラク戦争ではイラクが化学兵器として使用し、1988年にはハラブジャなどで多数の民間人被害を出しました。近年もシリア内戦などで化学兵器使用疑惑が取り沙汰された例があります。
国際規制と廃絶の取り組み
- ジュネーブ議定書(1925):戦時における毒ガスと細菌戦の使用を禁止しました(使用の禁止)。原文にもある通り、戦時中の使用を禁じる重要な最初の条約です。化学兵器禁止条約の前段階の国際合意として位置づけられます。
- 化学兵器禁止条約(CWC):1993年に採択・開放(署名)され、1997年に発効。化学兵器の開発・生産・備蓄・使用を全面的に禁止するとともに、既存の化学兵器の廃棄を義務付けています。硫黄マスタードはCWCのスケジュール1(特に危険で軍事利用が主な化学剤)に該当する物質に分類される場合がある(具体的な規定や該当性は条約文・スケジュールを参照)。条約の実施機関は OPCW(化学兵器禁止機関) で、監視・査察・廃棄の実行を行います。
- 現状:条約により正規国家による保有・製造は禁止され、既に多くの備蓄は破壊されましたが、条約違反や非国家主体による使用報告が時折あるため、国際社会は監視と対応を継続しています。
製造・保管・廃棄(安全上の留意点)
硫黄マスタードは比較的容易に合成できるため危険視されますが、保管・搬送・廃棄は極めて厳格に管理されます。廃棄方法は高温焼却(適切な排ガス処理を伴う)や化学的中和(酸化剤やアルカリでの加水分解)などがあり、CWCに基づく監督のもとで実施されます。誤って環境に放出された場合、土壌や設備の深刻な汚染を引き起こすため、専門的な除染チームと施設が必要です。
関連物質
同じ「マスタード」と呼ばれる類縁体に窒素マスタード(nitrogen mustards)があります。これらは構造や作用機序が類似しているため軍事的には危険物に分類されますが、窒素マスタードの一部は抗がん剤として医療用途(低用量での化学療法薬)にも利用されてきました。ただし医療用途でも厳格な管理下で用いられます。
まとめ(注意喚起)
硫黄マスタードは深刻な人体被害をもたらす化学兵器であり、国際法により使用・製造・備蓄が禁止されています。現場での最善の対応は「曝露の回避」と「迅速な除染・医療介入」です。一般市民が遭遇した場合は近くの医療機関や緊急対応機関に直ちに連絡し、専門家の指示に従ってください。


第一次世界大戦でのマスタードガス火傷の犠牲者
質問と回答
Q:マスタードガスとは何ですか?
A: マスタードガスまたは硫黄マスタードは、化学兵器として使用されてきた化合物です。
Q:いつから戦争に使われるようになったのですか?
A: 1917年、第一次世界大戦でドイツ軍がベルギーのイーペル付近でイギリスとカナダの兵士に対して使用したのが最初です。
Q: 常温ではどのような形をしていますか?
A: 硫黄マスタードの多くは、常温では色も匂いもない、ふにゃふにゃした液体です。戦場で使用される場合は、黄色から茶色の色をしています。また、料理用のマスタード(食用)、ワサビ、ニンニクのような匂いのものもあります。
Q:イオウ・マスタードは誰が発見したのですか?
A: 硫黄マスタード(マスタードガス)は、1860年にフレデリック・ガスリーによって合成されました。1820年代にはM.Depretzによって発見されていたかもしれません。
Q:名前の由来は?
A: 匂いから名づけられたが、料理用のマスタードとは全く関係ない。
Q:戦時中の使用はいつから禁止されていたのか?
A: 1925年のジュネーブ議定書により、戦時中の使用は禁止されました。この議定書は、毒ガス(第一次世界大戦で広く使用された)の使用を非合法化したものです。また、1993年には化学兵器禁止条約が批准され、毒ガスの製造や備蓄が禁止されました。
Q:その化学式は?
A:イオウ・マスタードは、式(ClCH2CH2)2Sで表される有機化合物です。