コソボ・メトヒヤ自治州 1990–1999年の歴史と紛争の経緯

地名と呼称
コソボ・メトヒヤ自治州は、セルビア語でセルビア語表記のАутономна Покрајина Косово и Метохиja(ローマ字: Kosovo i Metohija、略称КиМ / KiM または俗に Kosmet)と呼ばれます。アルバニア語ではアルバニア語で「Kosova dhe Metohija」または単に「Kosova」と表記・呼称されます。いずれの呼称も歴史的・政治的背景を持ち、地域内外で用語の選択が政治的意味を帯びることが多いです。

1990年代前半:自治権の剥奪と並行社会の成立

社会主義ユーゴスラビア時代(1946–1990年)には、コソボはセルビア内に設置された自治州でした。1990年初頭、スロボダン・ミロシェビッチによる政治的変動(しばしば「反官僚革命」と呼ばれる)によって1974年憲法で保障されていたコソボの高い自治権は急速に縮小され、セルビア中央政府の統制が強化されました。

この変化に反発したコソボのアルバニア人政治勢力は、1990年には独自の政治機構や教育・医療などの並行制度を構築しました。同年、アルバニア人指導者らは象徴的に「コソボ共和国」の独立宣言を行いましたが、国際的な承認は得られませんでした。セルビア側は法的にこの地域をセルビアの一部であると主張し続けました。

1990年代中盤から後半:武力衝突へ

1990年代半ばになると、武装組織であるコソボ解放軍(通称KLA、アルバニア語名:UÇK)が現れ、セルビア治安部隊との間で小規模な衝突が増加しました。1998年から1999年にかけての激しい衝突では、セルビア側の治安部隊とパラミリタリー、反政府武装勢力との間で広範な戦闘とともに、民間人に対する暴力や報復が多発しました。

この期間の主な経過と出来事は以下の通りです:

  • 1998年:紛争は一層激化し、人道的危機(民間人の殺害、拷問、強制退去、村落の破壊など)が深刻化。
  • 1999年2月:国際的な仲介をめぐるラブロイエ交渉やランブイエ協議が行われたが合意に至らず、停戦は成立しなかった。
  • 1999年3月–6月:NATOはセルビア(ユーゴスラビア連邦)に対して無人の空爆(地上軍介入を伴わない空爆)を実施(いわゆるNATOの軍事介入)。これにより数か月にわたって戦闘が続いた。
  • 1999年6月:セルビア側とNATO・国際社会の間で停戦合意が成立し、セルビア軍はコソボから撤退。国連安全保障理事会決議1244に基づき、国連暫定行政ミッション(UNMIK)と北大西洋条約機構(KFOR)による管理・平和維持が開始された。

人的被害と避難

1998–1999年の紛争では多数の民間人が犠牲となり、被害規模については資料により差がありますが、推定で数千から1万数千人の死者が出たとされ、難民・国内避難民は数十万に上りました。戦闘とその前後に発生した大量の追放・報復行為により、多くのアルバニア系住民が一時的または恒久的に故郷を追われ、戦後にはセルビア系住民の多くも安全を理由に地域を離れる事態が起きました。

1999年以降の統治とその後の動き

戦闘終結後、コソボは実質的に国際行政下(UNMIK)に置かれ、治安維持のためにKFORが展開しました。法的には国連安保理決議1244によりコソボはセルビア領域の一部と位置づけられたものの、実際の統治は国連と国際部隊が担いました。

その後の10年余りでコソボの政治状況は変化を続け、2008年2月にコソボ側の一部政治勢力が一方的に独立を宣言しました(セルビアは認めず、国際的にも意見が分かれました)。これについては別項で詳述しますが、1990–1999年の出来事はコソボ紛争の直接的な引き金となり、その後の地域秩序と民族間対立に深い影響を与えました。

補足:主要な関連点

  • 首都はプリシュティナである。
  • コソボ紛争の経緯は、セルビアとコソボの双方の憲法・法律上の主張の対立、民族的な緊張、並行した政治社会制度、武力衝突と国際介入が絡み合った複合的な問題である。
  • 1990年代の諸出来事は、後の国際法上の議論、地域安全保障、難民問題、人権調査や戦争犯罪の訴追(国際刑事裁判所や旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷の関与)にもつながった。

この概要は1990–1999年に焦点を当てた説明です。各年の詳細な出来事、法的判断、被害状況については国連、国際人権団体、歴史研究などの一次資料を参照するとさらに深く理解できます。なお本文中の各固有名詞や言語表記に関する表記は、地域内外で用いられる複数の呼称を反映しています(例えばКосово и Метохијаやアルバニア語表記など)。

コソボ・メトヒジャ自治州の地図Zoom
コソボ・メトヒジャ自治州の地図

質問と回答

Q:コソボ・メトヒヤの正式名称は何ですか?


A:コソボ・メトヒヤ自治州、またはセルビア語で。Аутономна Покрајина Косово и Метохиja; アルバニア語では、Krahina Autonome e Albanian: アルバニア語では「Krahina Autonome e Kosovës dhe Metohisë」です。

Q: コソボとメトヒヤの略称は何ですか?


A:通称「コソボ・メトヒヤ」、セルビア語では「Kosovo and Metohija」。セルビア語ではКосово и Метохија、アルバニア語ではКосово и Метохијаです。コソボ、またはセルビア語で: Kosova dhe Metohija、または Kosovo。アルバニア語ではКосово; Косово。コソボ

Q:現在、誰がこの土地を支配しているのですか?


A: 現在、コソボ共和国(自称)がこの土地を実際に支配しています。

Q:いつからセルビアの一部になったのですか?


A:コソボ共和国以前は、1912年から1999年までセルビア(セルビアがユーゴスラビアの一部であった頃)が支配していました。

Q: スロボダン・ミロシェビッチによる反官僚革命の間に何が起こったのですか?


A: 1990年、コソボがユーゴスラビアの一部であった時に起こったスロボダン・ミロシェビッチによる反官僚革命では、コソボの政府は力を失い、セルビアが1971-74年のように支配力を強めたのでした。

Q:コソボの独立を承認している国連加盟国は何カ国ですか?


A:95の国連加盟国がコソボの独立を承認しています。

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