ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公家の王子、フリードリヒ・ヨシアス(Friedrich Josias、1737年12月26日 - 1815年2月26日)は、オーストリア(ハプスブルク帝国)軍に仕えた有能な軍人であり、十八世紀後半の中欧・東欧で活躍した。生涯は公家の出自と軍人としての活動が交錯するものであり、ヨシアスは数々の会戦や占領作戦で重要な役割を果たした。
出自と若年期
ヨシアスは、ザクセン・コーブルク・ザールフェルト公フランシス・ヨシアスとシュヴァルツブルク=ルドルシュタット公妃アンナ・ソフィーの末子として、コーブルクのシュロス・アーレンブルクで生まれた。公家の出身でありながら、若い頃から軍事に関心を持ち、オーストリア(ハプスブルク帝国)側での軍務に身を投じた。
ハプスブルク軍での経歴
1759年にオーストリア軍に大佐として入隊し、ハプスブルク軍の一員として七年戦争に参加した。戦功を重ね、1773年には中将(Feldmarschall-Leutnant に相当する階級)に昇進した。以降、オーストリア軍の中堅〜高級指揮官として各地で指揮を執った。
ロシア・トルコ・オーストリア戦争(1788–1791)での活躍
1788年からのロシア・トルコ・オーストリア戦争では、フライヘル・フォン・ラウドン(ラウドン将軍)らと連携し、軍団(コルプス)を指揮した。モルダヴィアやベサラビア方面での作戦に参加し、モルダヴィアを占領し、ベサラビアの重要拠点であるホティン(Hotin)やフォシャニ(Focșani)周辺の戦闘に関与した。特にフォシャニの戦い(1789年8月1日)では、アレクサンドル・スヴォロフらの作戦を支援して成果を挙げ、さらにリムニクの戦い(Rymnik)でもオスマン帝国軍の撃破に寄与した。
これらの勝利により、ヨシアスら連合軍はワラキア(ヴラハ)やブカレスト周辺を一時占領し、現地住民の一部から歓迎される場面もあった。戦功により彼は軍内で高い評価を受け、指揮官としての地位を確立した。
私生活と家族関係
モルダヴィア占領期に、ヨシアスはテレーゼ・ストロフェックという女性と親しくなり、1789年9月24日にローマン(Roman)の町で息子をもうけたとされる。その後、ヨシアスはコーブルクに戻り、同年12月24日にテレーゼと結婚して息子の父であることを公に認めたという伝承がある。息子はフレデリック(フリードリヒ)と名付けられ、晩年にかけて〈ローマン〉の姓や爵称に関する扱いが行われたという記録が残る。例えば、後年(1853年2月17日)にはザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト2世によってフライヘル・フォン・ローマンといった称号が与えられたという史料もあるが、私生児・婚姻関係や継承に関する扱いは時代とともに複雑化している。
フランス革命戦争での指揮(1793–1794)と退役
1793年から1794年にかけてのフランス革命戦争(対フランス第一次同盟戦争)では、ヨシアスはオーストリアのオランダ(当時のオーストリア領ネーデルラント、現在のベルギー・北フランスに相当)で軍を率いた。1793年のニールヴィンデン(Neerwinden)での勝利や、コンデ、ヴァランシエンヌ、ケズノワ(Quesnoy)、ランドレシ(Landrecies)など北フランスの要地占領に関与し、一時は同地域をオーストリア側に戻すことに成功した。
しかしその後、連合軍内の意思疎通や配置のまずさ、戦略上の不一致などが重なり、1794年6月26日のフルルス(Fleurus)でフランス軍に決定的な敗北を喫する。この敗北は同地域における連合側の戦略的後退を招き、ヨシアスはオランダ方面での指揮を離れ、最終的には軍の第一線指揮から退いた。ハプスブルク家の外交方針や戦局の変化も影響し、実質的に軍務の第一線から退くこととなった。
晩年と評価
指揮官職を離れた後、ヨシアスは故郷のコーブルクに戻り、そこで余生を過ごした。1815年に没するまで、彼は公家出身の軍人としての経歴を残した。軍事史上は、東欧でのロシア・トルコ戦争や初期フランス革命戦争期における活動を通じて、地域的な成功とともに連合軍側における協調不足や戦略的困難が露呈した事例の当事者として評価されることが多い。
フリードリヒ・ヨシアスは、公家としての出自とハプスブルク軍における職能を併せ持ち、18世紀後半の複雑な国際情勢の中で活動した人物である。彼の軍歴は、同時代の戦争の流れと同盟関係の変化を理解するうえで示唆に富む。

