イザベラ — キリキア王国の女王(治世1219–1252)

アルメニア・キリキアの女王イザベラ(治世1219–1252)の波乱の生涯と政略結婚、内政と家族を詳述。

著者: Leandro Alegsa

アルメニア女王イザベラ(1252頃没)は、1219年から1252年までアルメニア王国キリキアを統治した王妃であり、歴史上しばしば「ザベル(Zabel)」とも呼ばれる。彼女はアルメニア王レオ2世とリュシニャン家出身のシビラ(キプロス王アマルリック1世の娘)の間に生まれ、父レオによって後継者に指名された。

生い立ちと即位

イザベラは幼少のころに王位を継承し、若年での即位期には廷臣や摂政たちの影響を受けながら統治が行われた。キリキアは当時、周囲のムスリム勢力や近隣の十字軍国家、東方の勢力と微妙な均衡を保つ必要があり、内政・外交ともに複雑な課題を抱えていた。

結婚と政略

イザベラは政治的理由から二度結婚した。最初の夫はアンティオキア公ボエモン(ボヘムント)4世の息子フィリップで、1223年に結婚した。しかしこの結婚は長続きせず、フィリップは1225年に殺害され、婚姻は短期間で終わった。

2番目の夫はヘトゥム(ヘティム)1世で、両者は1226年614日に結婚したと伝えられている。この結婚はイザベラの意思に反して行われたともされ、以後ヘトゥムは1226年から1270年までアルメニアの共同統治者(あるいは実権を握る支配者)として振る舞うようになる。二人の結婚はキリキア内部の有力家系間の勢力調整を決定づけ、ヘトゥム家(ヘティム朝)の台頭をもたらした。

子女と後継

イザベラとヘトゥムの間には6人の子供が生まれ、彼らは後に王位継承や地方領主として重要な役割を果たした。子孫を通じてヘトゥム家はキリキアの王権を強め、その後の外交路線や内政に影響を与え続けることになる。

治世の意義と遺産

イザベラの治世は、キリキア王国が十字軍国家や東方勢力と対峙する過渡期にあたり、婚姻や同盟を通じて王国の存続を図る時代であった。彼女自身は政治的当事者として激しい権力闘争の中に置かれたが、その結婚と子女を通じてキリキアの政局に長期的な影響を残した。現代の歴史研究では、イザベラは王国の継承と勢力再編を象徴する重要な人物として評価されている。

補記:史料や年代記により呼称や年次の扱いに差異があり、イザベラ(ザベル)に関する細部は研究者間で異説がある点に留意されたい。



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