シュリーフェン計画(Schlieffen Plan)は、アルフレッド・フォン・シュリーフェン伯爵が作成した戦略的構想で、主にドイツ帝国陸軍のために1905年頃にまとめられたものです。シュリーフェンは海軍ではなく、ドイツ陸軍の参謀本部で長年にわたり要職を務め、欧州での二正面(西:フランス、東:ロシア)戦争に備えるための作戦案を提案しました。計画は、短期間で西側の敵を決定的に撃破してから兵力を東へ移してロシアと対峙する、という「速攻で片方を屈服させる」方式を目指していました。なお当時の同盟関係としてはドイツ帝国のほかにオーストリア・ハンガリーが主要な同盟国で、イタリアは名目上の同盟国でしたが実際の行動は限定的でした。
計画の要点
- 主攻は西部(フランス)に集中。ベルギー領内を突破してフランスの側面・後方に回り込み、パリ周辺で包囲・撃破する。
- 迅速な鉄道輸送と動員を用いて、短期間に大部隊を西方へ移動させる。
- 西方で決定的勝利を収めた後、鉄道で兵力を東方へ転用してロシアに対処する。
- 防御の利点(塹壕、機関銃、有刺鉄線、鉄道による迅速展開)を認識しつつも、戦略的には早期決戦を志向した。
第一次世界大戦での実施と問題点
シュリーフェンは1906年に退任しましたが、1914年の開戦時には後任の参謀たちが彼の案を基に作戦を立てました。実際に採用された布陣は「シュリーフェン計画を修正した案(しばしば“修正シュリーフェン案”)」とされ、特にモルトケ(後のモルトケ少将、当時の参謀総長)の下で重要な変更が加えられました。
計画が期待どおりに機能しなかった主な理由は次のとおりです。
- 戦力配分の変更:モルトケは右翼(北側)への兵力の極端な集中をやや緩め、いくつかの師団を東部や防御に回した。これにより、包囲のための決定的な力が弱まった。
- ベルギー抵抗と補給問題:ベルギー軍の抵抗は予想以上であったうえ、中立国への侵攻は時間を稼ぎ、補給線が伸びて脆弱になった。
- フランスの反撃と機動:フランス軍の迅速な再配置やタクティクス、そしてマルヌの戦いでの反撃により、ドイツ軍の進撃は停滞し包囲は成功しなかった。
- 戦術・技術の変化:塹壕、機関銃、有刺鉄線、及び現代的砲兵の効率が防御の優位を高め、従来の大縦深の包囲戦を難しくした。
- 政治的影響:ベルギー中立の侵害はイギリスを参戦に向かわせ、ドイツの戦略的負担を増やした。
シュリーフェンの思想と防御の評価
シュリーフェン自身は防御の利点(鉄道での迅速な再配置や防御兵器の有効性)を認めていましたが、それでもなお戦略的に西方での迅速な決戦(機先を制して戦争を短期に終わらせること)が必要だと考えました。つまり防御の長所を前提に、それを突き崩すための側面・包囲を重視したのであり、単に「防御が常に優れている」と主張したわけではありません。
モルトケの変更と実行上の判断
モルトケ(若)による修正は、右派の兵力削減、東部への予備の転用、現地司令官の裁量拡大などを含みます。また戦場での指揮・通信の制約、現場司令官による進路変更(たとえばフォン・クルック将軍の部隊が当初予定より南に向かったこと)が作戦全体に影響を及ぼし、包囲の完成を妨げました。
第二次世界大戦との比較
第二次世界大戦では、エーリヒ・フォン・マンシュタインやハインツ・グデリアンらが新たな機動戦の概念を発展させ、電撃戦(Blitzkrieg)的な戦術でフランス侵攻(1940年の「ケース・イエロー」)を成功させました。外見上はベルギーやオランダを経由してフランスへ進入する点で似ていますが、重要な違いがあります。
- 通過路の差:1940年のドイツ軍は北部の想定ルートを重視させて敵を誘導したうえで、主攻をアルデンヌ(南部の薄守備地帯)から強行突破してフランス軍の背後へ回り込みました。
- 機械化と空軍の利用:戦車の大量投入、機甲部隊の連携、航空支援(ルフトヴァッフェ)による縦深攻撃が迅速な包囲と殲滅を可能にしました。これらは1914年には存在しなかった、あるいは未成熟だった要素です。
結論
シュリーフェン計画は「速攻で西を決する」発想に基づく巧妙な構想でしたが、実際の運用では時代の変化、現場判断、政治的制約、敵の抵抗といった要因により期待どおりに機能しませんでした。第一次世界大戦での失敗は、戦略案そのものよりも、その修正・運用と当時の軍事技術・政治環境との齟齬に起因する面が大きいと言えます。一方で、同じ基本思想(機動と側面突破)を、第二次世界大戦では機械化された形で成功裏に応用できた点も歴史の興味深い示唆です。


