シカンダル・ロディ:ロディ朝のデリー・スルタン、アグラ創建者(在位1489–1517年)
シカンダル・ロディ(在位1489–1517)—ロディ朝最盛期を築いたデリー・スルタン。アグラ創建、領土拡大・交易振興、詩人Gulrukhiとしての文化的業績を紹介。
生涯と出自
シカンダル・ロディ(在位 1489年7月17日–1517年11月21日)は、ロディ朝の第2代デリー・スルタンとして知られる。父はロディ朝初代スルタンのバフル・ロディ(Bahlul Lodi)であり、出自や生母については史料に諸説あるが、伝承ではヒンドゥー教の金細工師の娘ビビ・タイガー(Bibi Taigir、別表記あり)を母とするとも伝えられる。彼の長男は後のイブラーヒーム・ロディ(Ibrahim Lodi)で、イブラーヒームは1526年のパーニーパットの戦いでムガル朝のバーブルに敗れ、ロディ朝は終焉を迎える。
統治と行政
シカンダルは父の死後に権力を継承し、比較的安定した長期政権を築いた。中央集権化を進め、地方の有力者や豪族の自立を抑えようとしたため、国内の治安や税制の整備が進んだとされる。また、商業と農業の振興に努め、運河や灌漑の整備、都市の整備を通じて経済基盤の強化を図ったという記録が残る。
軍事的拡張と外交
在位中、シカンダル・ロディは北インドで勢力を拡大しようとし、次のような地域での影響力を伸ばしたとされる:
- パンジャーブ地方からベンガル、ビハールにかけての東方への拡張
- ガワーリオール(Gwalior)やブンデルカンド(Bundelkhand)など中央インド周辺への介入
- サトレジ(サトレジ川、Satluj/Sutlej)流域やその周辺地域での勢力確保
ただし、これらの拡張は必ずしも恒久的な支配を意味せず、地域ごとに抗争や駆け引きが続いた。ベンガルなど隣接する諸勢力との抗争や和解もあり、外交的・軍事的手腕を求められる時期が続いた。
宗教政策と社会
シカンダルはイスラム正統派に近い姿勢を取ったとされ、宗教面での厳格な政策を評価する史料もあれば、ヒンドゥー教徒に対して厳しい扱いがあったと記すものもある。寺院や宗教的行事に関する扱いについては地域差や時期差があり、単純に「寛容/非寛容」と断じることは難しいが、宗教的規範を重視する傾向が強かったのは確かである。
文化・建設事業
シカンダルは都市整備や建築事業にも力を入れ、特に現在のアグラを発展させたことで知られる。アグラを戦略的・行政的に重要な拠点へと育て、のちにロディ朝やその後の時代における重要都市となった。
また、ペルシア語で詩作を行い、雅号(ペンネーム)として Gulrukhi(または類似表記) を用いた。宮廷文化や学問を保護し、建築や文学の面で一定の後押しを行った。
死去と遺産
1517年11月21日に没し、遺体は現在のロディ・ガーデン(Lodi Gardens、ニューデリー)に埋葬されている。シカンダルの治世はロディ朝の中で比較的長期かつ安定した時期とされ、行政の整備、都市建設、経済振興といった面での成果が評価される一方、宗教政策や地方支配のあり方を巡る評価は年代や史料によって分かれる。
評価
総じて、シカンダル・ロディはロディ朝のなかで有能な統治者の一人と見なされることが多い。後継者イブラーヒーム・ロディの時代に帝国が崩壊していくため、シカンダルの治績はしばしば「安定期をもたらした統治」として評価されるが、時代背景や地域ごとの事情を踏まえて多面的に理解する必要がある。
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