バンカーヒルの戦いは、アメリカ独立戦争の戦いで、ボストン包囲戦の最も有名な戦闘の一つです。1775年6月17日に主にブリードの丘の上とその周辺で行われました。戦闘地がバンカーヒルの近くだったことから「バンカーヒルの戦い」と広く呼ばれますが、実際の激戦地はブリード(Breed)の丘であり、タイトルにあるように「ブリードの丘の戦い」と呼ばれることもあります。
背景
1775年春、ボストンはイギリス軍によって封鎖・占領され、周辺を取り囲む植民地軍(民兵や義勇兵)が包囲線を張っていました。イギリス側は市外の高地を確保して包囲を打破しようと考え、植民地側はそれを未然に防ごうとしました。植民地側の指揮はウィリアム・プレスコットらが担い、イギリス側の作戦は総督トーマス・ゲイジや後に前線で指揮したウィリアム・ハウら将校が中心でした。
占領と先制の夜襲
植民地軍は夜陰に紛れて高地の確保を決行しました。正確には1775年6月16日夜、プレスコット指揮下の約1,200名の植民地軍がバンカーヒル(Bunker Hill)とブリードの丘を占領し、ブリードの丘に土の堡塁(赤土で築いたレダウト)を急造し、チャールスタウン半島の多くに簡易的な陣地線を築きました。これによりイギリス軍は新たな脅威に直面することになりました。
戦闘の経過
イギリス軍は新たな陣地の存在を知ると、翌6月17日に大規模な攻撃を仕掛けました。攻撃は主に正面からの突撃で、英国歩兵は徒歩で3回にわたって塁線を突き上げました。最初の二度の突撃は植民地側の射撃で退かされ、大きな損害を受けましたが、最終的には弾薬の欠乏や防御陣地の損耗により、レダウトの防御者が弾薬を使い果たした後、3回目の突撃でイギリス軍が位置を奪取しました。植民地軍は退路を確保して後退し、チャールスタウンを経てケンブリッジ方面へ退却・再編成しました。戦闘の最中および戦闘後にチャールスタウンの町はイギリス海軍の砲撃と出火により大部分が焼失しました。
損害と戦術的評価
イギリス軍は戦術的には陣地を奪回して勝利しましたが、損害は甚大でした。記録によればレッドコート(英国兵)では800人以上が負傷・戦闘不能となり、226人が戦死したとされています。将校層の損失も大きく、配備された部隊のかなりの割合を占めました。そのためこの勝利はしばしばピュロスの勝利の一例と評されます。一方で植民地軍は撤退に成功し、兵力を温存して再編成できたこと、ならびにイギリス正規軍に対して民兵でも十分に戦えることを示した点で精神的な勝利を得ました。
- イギリス軍の損害(概数):226人戦死、800人以上負傷(記録により差異あり)
- 植民地軍の損害(概数):死傷者が出たが、組織的な撤退で大損害は免れた(記録により差異あり)
影響と歴史的意義
この戦いは長期的には植民地側にとって重要な転機となりました。第一に、植民地軍の士気が向上し、志願兵や民兵の募集に弾みがつきました。第二に、イギリス側にも「簡単には包囲を破れない」という認識を与え、両軍の戦略に影響を与えました。第三に、国際的にも「アメリカの民兵が正規軍と伍して戦える」という印象を与え、後の外交・支援の土台になりました。
戦闘そのものは包囲戦を終わらせるほどの決定的勝利ではなく、ボストン包囲はその後も続きました。最終的にイギリスは翌年(1776年)3月にドーチェスター高地(Dorchester Heights)に設置された大砲の脅威を受けてボストンを放棄・撤収しますが、バンカーヒルの戦いはその過程における重要な出来事として記憶されています。
まとめ:バンカーヒルの戦い(ブリードの丘の戦い)は、1775年のボストン包囲戦における大規模な白兵戦であり、戦術的には英軍の勝利であったものの、損害の大きさからピュロス的勝利と見なされ、植民地側の自信と抗戦能力を高める決定的な役割を果たしました。

