ナラパニの戦い(1814年10月末〜11月末)は、1814年から1816年にかけての英領ネパール戦争(英・グルカ戦争)の最初の主要戦闘の一つで、イギリス東インド会社の軍と当時ゴルカ家が勢力を持っていたネパールとの軍勢が、デフラダン地方のナラパニ砦(ナーラパーニ)周辺で激突した。戦闘は山岳地形と小規模な砦を舞台に行われ、数に勝るイギリス側が大きな損耗を被りながらも最終的に砦を占領するという展開になった。

背景

19世紀初頭、ネパール(グルカ国)は南方へ勢力を拡大しており、インド北部の国境地域で東インド会社との摩擦が高まっていた。境界や通行権、反抗的部族への介入などを巡る対立が原因で、英領ネパール戦争が勃発した。英印側は戦争序盤に北西インドの戦略的要所を確保するために、デフラダン方面へ進軍した。

主要当事者と兵力

砦の守備隊はバルバドラ・クンワー大尉(バルバドラ・クンワー)らによって指揮され、守備隊は約600名程度と伝えられる。一方、英印側は数千の兵力を投入して包囲攻撃を行い、史料によって差はあるがしばしば5,000人以上と記される。イギリス軍側の指揮官の一人として、ジャワ島での戦闘経験を持つロロ・ガレスピー少将が前線を率いていたが、包囲の初日に前線で戦死した記録が残る。

包囲戦の経過

イギリス軍は砦の正面からの突破を試み、2度の直接攻撃を行ったがいずれも高い犠牲を伴って失敗した。堅固な塁壁、狭い接近路、守備側の果敢な抵抗が重なり、簡単に攻略できなかった。砦への正面攻撃が思うように進まないため、イギリス軍は砦の外への補給と水源を断つ包囲戦術に切り替えた。

数週間にわたる包囲の末、砦の水の供給は断たれ、守備隊は深刻な水不足に直面した。最終的に3日間あまりの渇きの後、降伏を拒んだバルバドラは残存する約70名の兵を率いて夜半に突撃を敢行し、包囲線を突破して砦外へ脱出した。生き残った兵の多くは周囲の丘陵地帯へ撤退したとされる。最終的にイギリス軍は物理的には砦を確保したものの、その代償は大きく、費やした時間と人員・資材から見て決して容易な勝利ではなかった。

評価と影響

ナーラパーニ周辺での防戦は、グルカ兵の勇猛さと粘り強さを印象づける出来事となり、以後の戦史において「グルカの勇士(グルカ兵)」という評判を確立する重要な契機となった。英印側はその戦闘力を高く評価し、戦後にグルカ兵を自軍に取り入れる方針を進めていくことになる。

英領ネパール戦争はその後も複数の激戦を経て、最終的に1816年のスーガウリ条約(Sugauli Treaty)で終結し、ネパールは一部領土を割譲することになった。ナーラパニの戦闘は戦争の初期段階における象徴的な出来事として、現在でもネパール側、イギリス側双方の軍事史や記憶に刻まれている。

補足:史料によって兵力や正確な日付、死傷者数には差異があり、細部は研究者間で議論が続いている。ナラパニの戦いは地形・補給・士気が戦闘の帰趨を左右した典型例としても注目される。