白人市民会議とは、白人は黒人より優れている(白人至上主義)と考えるアメリカの人々の集まりであり、1954年7月11日にミシシッピ州インディアノーラでロバート・B・パターソンらによって結成されました。結成は、1954年5月の連邦最高裁判所による「Brown v. Board of Education(教育における人種隔離は違憲)」判決に対する白人南部の反発の一環として起こり、1956年ごろからは地域や全国組織を含めて「アメリカ市民会議」などと呼ばれることもありました。1950年代から1960年代にかけては、特に南部各州で人種統合に反対する政治的・社会的勢力の中核をなしており、ピーク時には約6万人の会員を擁したとされています。
活動と手法
白人市民会議(WCC)は、自治体や学校の統合に反対するために、次のような手段を用いました:経済的圧力(黒人活動家やその支持者に対する職の喪失や商取引の拒否)、社会的排斥(店舗や公共施設からの締め出し、居住地からの追放)、政治的ロビー活動、裁判や法的手続きへの干渉、そして時には暴力的・威嚇的行為の黙認や助長です。表向きは「尊厳ある市民組織」を標榜し、地方の有力者(地主、実業家、警察関係者、政治家など)が多く参加していたため、地域社会で強い影響力を持ちました。また、クー・クラックス・クラン(KKK)など過激派と行動が連動する場合もあり、WCCは「大規模な抵抗(massive resistance)」運動の一翼を担っていました。
制度的対応と衰退
1960年代半ば以降、連邦政府は公民権運動と司法判断を背景に、学校統合や公民権保護を実現するための立法と執行を強化しました。特に1964年の公民権法(Civil Rights Act)および1965年の投票権法(Voting Rights Act)の成立と、その後の連邦裁判所および行政機関による強力な執行により、WCCの直接的な影響力は次第に低下しました。1970年代には、連邦政府・州政府による法の適用と差別禁止措置の徹底で多くの支援基盤が崩れ、地域組織の解体や縮小が進みました。
その後の展開と遺産
WCCは形式的には弱体化しましたが、メンバーや支持者の一部は活動を継続・再編し、1985年には元WCC関係者が中心となってCouncil of Conservative Citizens(保守的市民評議会)を設立するとされます。WCC時代の組織や理念はその後のいくつかの白人至上主義・反移民運動や極右団体に影響を与え、今日に至るまでアメリカの人種問題や歴史研究の重要な対象となっています。現代では、白人市民会議は公民権運動に反対した組織として広く批判されており、差別撤廃や人種平等に関する歴史的教訓の一つとして扱われています。
参考として、WCCの研究では結成時期や地域ごとの活動、会員構成(有力者の参加)、および公民権運動への対抗戦略(経済的ボイコット、学校閉鎖、私立の「分離主義」学校の促進など)が繰り返し指摘されています。これらは米国南部の近代史と市民権の確立過程を理解するうえで重要な要素です。