1896年アメリカ大統領選:マッキンリー対ブライアンと第四極体制への転換

1896年アメリカ大統領選:マッキンリー対ブライアンの激闘と経済恐慌が招いた第三極から第四極体制への転換を政治史視点で解説。

著者: Leandro Alegsa

1896年のアメリカ合衆国大統領選挙は、第28回目の大統領選挙である。1896年11月3日(火)に行われた。共和党の候補者であったウィリアム・マッキンリー元知事は、民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破った。1896年の選挙戦は、1893年のパニックと呼ばれる経済恐慌の最中に起こった。この選挙は、「第三極体制」から第四極体制への変化を示すものとされている。

政治的・経済的背景

1893年の恐慌とその後の不況により、農業地域や有色労働者を中心に経済政策への不満が高まっていた。中心的争点は通貨(銀貨の自由鋳造=Free Silver)と金本位制、及び関税政策だった。農民や借金を抱える層は貨幣供給の拡大(銀の自由鋳造)を求め、工業・金融界や多くの都市有権者は金本位制と安定した信用を支持した。

候補者と主要争点

  • ウィリアム・マッキンリー(共和党):保護関税の維持、金本位制支持、ビジネスと産業の振興を公約とした。実務的で穏健なイメージを前面に出し、選挙戦は「フロントポーチ(自宅縁側)キャンペーン」と呼ばれる形で行った。選挙運動の指揮をとったスポンサーの一人が政治資金調達で知られるマーク・ハンナで、企業や銀行から大きな資金を集め、全国的な宣伝網を張りめぐらせた。
  • ウィリアム・ジェニングス・ブライアン(民主党):自由銀貨(銀本位)を強く訴え、1896年民主党全国大会での「Cross of Gold(黄金の十字架)」演説は有名である。ブライアンは若く情熱的な演説家として全国遊説(ホイッスルストップ方式)を行い、農村部や西部・南部の支持を集めた。民主党の一部だけでなく、ポピュリスト(人民党)からも支持・協力を受けたため、両勢力の連携が試みられた。

選挙戦術と資金

この選挙は近代的選挙運動の特徴を強く帯びていた。マッキンリー側は資金力を背景に新聞広告やパンフレット、組織的な投票動員を行い、安定と経済的繁栄を訴えた。一方ブライアンは個人演説で大衆の心をつかむ草の根型の運動を展開したが、資金不足と都市部の組織力差が響いた。

結果

選挙結果は次の通りである。選挙人団ではマッキンリーが271票、ブライアンが176票を獲得し、マッキンリーが勝利した。得票数(国民投票)ではマッキンリーが約7,112,138票(約51.0%)、ブライアンが約6,502,925票(約46.7%)を得た。地域別には、マッキンリーが工業化の進んだ北東部・中西部および太平洋岸を固め、ブライアンは南部と山岳西部・一部中西部を制した。

歴史的意義と長期的影響

1896年選挙は単なる一回限りの勝敗を超え、アメリカの政党構造と政策の長期的方向を定める転換点となった。一般にこの選挙は「第三極体制(農村・南部優位の時代)」から第四極体制(共和党が都市・産業・中産階級を基盤に長期的優位を保つ時代、約1896〜1932年)への移行を象徴するとされる。実際、マッキンリー政権下で高関税の維持(1897年ディングリー関税法など)や金本位制志向の金融政策が採られ、企業・金融界の影響力が強まった。

ポピュリズムとその後

ブライアンを支持したポピュリスト運動は1896年の段階で民主党への融合を試みたが、長期的には独自勢力としての力を失っていった。ブライアン自身は後に1900年・1908年にも大統領候補となるが、1896年の敗北はポピュリズムと農村中心の政治勢力が国家レベルで多数派を形成することの難しさを示した。

まとめ

1896年の大統領選は経済不況を背景に通貨と関税を巡る争点が表面化し、資金力を背景にした近代的選挙運動と大衆扇動の対立が鮮明になった。マッキンリーの勝利は共和党の長期的支配と保守的な経済政策をもたらし、アメリカ政治の体制的な転換点として評価されている。



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