エドモンド・ケオサヤン(1936–1994)—アルメニアの映画監督・音楽家
アルメニアの巨匠エドモンド・ケオサヤン(1936–1994):VGIK卒、モスフィルムの名監督で音楽家としても活躍した人生と作品を詳述。
エドモンド・ケオサヤン(Armenian: Էոնդդ ՔյոWայան, Leninakan, now Gyumri, October 9, 1936 - April 21, 1994)は、アルメニアの映画監督であり音楽家でもあった。生涯を通じてソビエト連邦圏の映画制作に携わり、長編映画やテレビ映画、舞台的演出を含む幅広い作品群を残した。以下に出自、学歴、活動内容、作風と遺産についてまとめる。
出自と学歴
レニナカン(現Gyumri)で生まれたケオサヤンは、1954年から1956年にかけてプレハノフ・モスクワ経済研究所で学び、その後1956年から1958年にかけてエレバン美術・演劇学院で演劇や演出の基礎を修めた。1964年にはモスクワ国立映画大学(VGIK)の演出科を卒業し、E. Dziganのマスタークラスで学んだ。
映画監督としての経歴
1964年以降は主にモスフィルム・スタジオで監督職を務め、また数回にわたりアルメンフィルムでも制作を行った。長年にわたり映画の演出と脚本の制作、俳優とスタッフの統率を行い、ソビエト時代の映画制作の現場で実践的な仕事を重ねた。彼の作品は主にアルメニア語とロシア語で制作され、民族的な題材とソビエト文化圏の文脈を横断する内容が見られる。
音楽活動と舞台的仕事
ケオサヤンは映画監督のほか音楽や舞台演出にも関わり、ソビエト国立バラエティ・オーケストラの式典で司会や構成を務めたこともある。映像と音楽の融合に関心を持ち、楽曲や音響演出を通して作品のドラマ性を高める手法を採用した。
作風と評価
作風はジャンルや題材によって幅があるが、物語性を重視した叙述、演出のテンポ感、映像と音楽の調和を特徴とする。アルメニアの文化的要素や歴史意識を織り込むことで地域色を出しつつ、ソビエト映画としての普遍性や観客を意識したエンターテインメント性も併せ持っていたと評価される。
死去と遺産
1994年4月21日に没したが、その映画と演出はアルメニアおよび旧ソ連圏の映画史において一定の位置を占めている。晩年や死後にも、彼の作品は映画祭や特集上映、テレビ放映などで再評価されることがある。若い映画作家や研究者の間では、演出技法や映像表現の面で参照されることがある。
補足
- 学歴や所属スタジオ、言語に関する情報は本人の経歴に基づくもので、主要な仕事先としてモスフィルムとアルメンフィルムが知られている。
- 氏名の表記は言語や文献によりばらつきがあり、ラテン文字表記(例: Edmond Keosayan/Edmond Keosayianなど)やアルメニア語表記が併存する。
フィルモグラフィー
- 1964:静かなマキシムはどこだ?(Gde ty teper, Maxim?)
- 1966:とらえどころのないアベンジャーズ(Neulovimye mstiteli/Неуловимые мстители)
- 1968:とらえどころのないアベンジャーズの新しい冒険 (Novye priklyucheniya nuelovimykh/Новые приключения неуловимых)
- 1971:ロシア帝国の王冠、あるいは再びとらえどころのない復讐者たち(Korona Rossiyskoy imperi, ili snova neulovimykh
- 1973:トゥガマーディク(ロシア語:Muzhchiny、英語:The Men)
- 1975:モラツヴァッツ・ヘキアトネリ・キルトチェ(ロシア語:Ushchele pokinutykh skazok、英語:The Canyon of Deserted Tales)
- 1975:九月になれば (Kogda nastupayet sentyabr)
- 1978年:Huso Astgh(希望の星、ロシア語。アルメニア語の別タイトル。ムヒタル・スパラペト)
- 1980:レジェンド・ツァグラツイ・マシン(ロシア語:Legenda o skomorokhe、英語:Legend of the Clown)
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