後鳥羽上皇(1180–1239)|第82代天皇の生涯・院政と承久の乱
後鳥羽上皇(ごとうばじょうのう、1180年8月6日-1239年3月28日)は、日本の伝統的な継承順位によれば、第82代の天皇である。在位は1183年から1198年まで。
12世紀の君主で、鳥羽天皇の名をとって「後」とした。後鳥羽上皇と呼ばれることもある。古い資料では、この天皇は「第二代鳥羽天皇」または「鳥羽二世」とされることもある。
生涯の概略
生誕と出自:1180年に生まれ、父は高倉天皇、母は建礼門院(平氏の出)である。幼少期に源平の争乱(源平合戦)が起こる中、京都で即位した経緯がある。
即位と退位:1183年に即位し、1198年に譲位して上皇(退位後の天皇)となった。譲位後も院政(上皇による政治的実権の行使)により影響力を保持しようとしたが、鎌倉幕府との力関係が大きな制約となった。
院政と承久の乱(じょうきゅうのらん)
上皇として後鳥羽は朝廷の権威回復を目指し、幕府に対して政治的圧力を強めた。これが頂点に達したのが承久の乱(1221年)である。上皇は朝廷側の武力を動員して幕府に対抗したが、鎌倉幕府の軍事力により敗北した。
承久の乱の結果、上皇は捕らえられて隠岐(隠岐島)へ配流され、京都の朝廷は幕府の監督下に置かれることになった。この敗北は院政期における朝廷の政治的影響力の大幅な縮小を意味し、鎌倉幕府の実権が確立する契機となった。
文化的業績と和歌
後鳥羽上皇は政治家としてだけでなく、文化面でも大きな業績を残した人物である。特に和歌の保護者・創作者として知られ、朝廷歌壇を中心に多くの和歌撰定や歌合に関わった。
- 新古今和歌集の成立:上皇の勅命により編纂が進められ、鎌倉時代初期を代表する勅撰和歌集である『新古今和歌集』が成立した(編者には藤原定家や藤原俊成らが関与)。
- 歌壇への影響:自ら和歌を多く詠み、藤原定家・俊成らの名歌人を登用して歌学・歌論を育てた。後世の和歌史に大きな影響を与えた。
晩年と影響
承久の乱での敗北と配流後も、後鳥羽上皇の文学的・文化的遺産は長く尊重された。隠岐で晩年を過ごし、1239年に死去した。彼の試みは政治的には敗れたが、和歌や宮廷文化の整備という面では日本文化史における重要な足跡を残している。
年表(主要事項)
- 1180年 生誕
- 1183年 即位(第82代天皇)
- 1198年 譲位・上皇となる(院政を行う)
- 1200年代初頭 和歌や文化活動を主導、〈新古今和歌集〉の編纂に関与
- 1221年 承久の乱を起こすも敗北、隠岐へ配流
- 1239年 隠岐で死去
後鳥羽上皇は、政治的には鎌倉幕府に敗れた人物として語られることが多いが、文化面では院政期以降の和歌文化を形づくった中心人物の一人である。
伝統的な歴史
君主になる前の名は、高平親王(たかひらしんのう、尊成親王)、または高成親王(たかなりしんのう)といいました。
高倉天皇の第四皇子である。
後鳥羽の生涯の出来事
後鳥羽は3歳で即位した。
- 1183年9月8日(寿永2年、8月20日)。安徳天皇3年、天皇と宮廷は都を脱出する。後白河法皇は安徳天皇の弟を天皇とする勅令を発し、天皇は不在のままであった。幼い皇子が退位を受け入れる儀式(践祚)。
- 1184年」(寿永3年)。後鳥羽上皇が君主の役割と職務・権能を受け入れたとされる(即位)。これは儀式で確認された。
- 1192年(建久3年)。後白河法皇没。後鳥羽上皇は、後白河天皇の孫にあたる。
- 1198年(建久9年)。後鳥羽院は15年目に退位した。後継者は長男の土御門天皇となる。
- 1210年(承元4年)。後鳥羽上皇の第三皇子が天皇となり、順徳天皇と称される。
- 1221年(承久3年)。後鳥羽院は鎌倉幕府の政権を奪おうとしたが、失敗した。後鳥羽は隠岐に配流され、死ぬまで隠岐に留まった。
- 1221年5月13日(承久3年、4月20日)。後鳥羽上皇の4歳の孫が天皇となり、中京天皇と呼ばれるようになる。
- 1222年1月14日(承久3年12月1日)。後鳥羽上皇の甥が天皇となり、後堀河天皇と称される。
- 1239年(延宝元年・2月)。後鳥羽院、60歳にて没す。
彼の死後
後鳥羽は隠岐の島、道後島に葬られた。その後、遺体の一部は京都に再埋葬された。
宮内庁によると、後鳥羽院の陵墓(みささぎ)は京都にある。宮内庁によると、後鳥羽上皇の陵墓は京都にあり、大原御陵(おおはらのみささぎ)に祭られている。
後鳥羽院の時代
後鳥羽院の治世の年号は、1つ以上の元号で表記されている:。
- 冉求(1182-1184)
- 元暦(1184-1185)
- ぶんじ(1185-1190)
- けんきゅう