丹下健三(1913–2005):日本を代表する建築家・東京大学教授|プリツカー賞受賞

丹下健三の人生と代表作を解説。プリツカー賞受賞の軌跡、東京大学教授としての功績やモダニズム建築の魅力を凝縮紹介。

著者: Leandro Alegsa

この和名では姓が丹下となる

丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年9月4日 - 2005年3月22日)は、日本の建築家、東京大学教授である。1987年にプリツカー建築賞を受賞した。

経歴と教育

丹下健三は戦前・戦後を通じて活躍した日本を代表する建築家の一人です。若いころから建築に関心を持ち、設計と都市計画の両面で活動を続けました。大学教員としては東京大学で教鞭をとり、多くの後進を育て、国内外のプロジェクトや復興計画、国際博覧会の設計・マスタープランなどでも中心的な役割を果たしました。

代表的な作品

  • 広島平和記念公園(広島平和記念資料館など) — 戦後復興の象徴的な計画・施設の一つとして知られ、被爆都市の記憶と再生をめざした設計が注目された。
  • 国立代々木競技場(代々木第一・第二体育館)(1964年) — 東京オリンピックに向けた代表的なスポーツ施設で、曲線を用いた屋根構造などで高い評価を得た。
  • 聖マリア大聖堂(カトリック東京カテドラル)(1964年) — 現代的な表現と伝統的な宗教建築の要素を融合させた宗教建築の代表作。
  • 日本万国博覧会(大阪万博・1970年)のマスタープラン — 大規模な都市的イベントの計画と空間構成を手がけ、戦後日本の国際的な舞台づくりに貢献した。
  • 東京都庁舎(都庁)(1990年代完成) — 都市のランドマークとなる行政ビルで、大規模プロジェクトの一例として知られる。

建築の特徴と影響

丹下の建築は、近代主義の原理を基盤としつつ、日本の気候・文化・歴史を考慮した空間づくりを試みた点が特徴です。構造の明快さや大スパンの造形、都市スケールでの計画能力が評価され、同時代の建築家や後進の世代(メタボリズム運動に関わった建築家たちを含む)に大きな影響を与えました。

教育・社会的貢献

大学での教育活動や多数の設計プロジェクトを通じて、丹下は建築教育と都市計画の重要性を訴え続けました。学生や若手建築家の育成にも熱心で、事務所を拠点に多くの建築家を輩出しました。

受賞と評価

1987年のプリツカー建築賞受賞をはじめ、国内外で高い評価を受けました。受賞理由のひとつには、戦後の復興と近代都市づくりに果たした貢献、革新的な建築表現と都市的発想が挙げられます。

晩年と遺産

2005年3月22日に逝去した後も、丹下の作品と思想は評価され続け、日本の近現代建築を語るうえで欠かせない存在となっています。彼が残した建築と都市計画の遺産は、現代の設計実務や都市政策にも影響を与え続けています。

(注)本文では主要な業績や特徴を概説しました。各作品の詳細な年次・担当範囲などを含めた深堀りは、専門書や公的資料での確認をおすすめします。

幼少期

丹下は大阪で生まれた。1913年、四国の愛媛県今治市という小都市で育つ。

丹下は、軍隊に入るのを避けるために、日本大学で映画を学んだ。

1935年、東京大学で建築を学び始める。岸田秀人、内田祥三が師と仰ぐ。

キャリア

1942年、丹下は大東亜共栄圏記念館の設計コンクールに入賞した。

戦後は東京大学教授となり、磯崎新、神谷浩史、黒川紀章、槇文彦、大谷幸夫などの建築家を指導した。

戦後、広島の再建を担当した丹下健三氏。広島平和記念資料館を設計。

1959-60年、丹下はメタボリズムという建築運動の創設メンバーであった。

1987年、丹下はプリツカー賞を受賞した。

栄誉

  • RIBAゴールドメダル、イギリス
  • AIAゴールドメダル、アメリカ
  • 文化勲章
  • 瑞宝章

ギャラリー

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グランドプリンスホテル赤坂(1982年)

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OUBセンター(シンガポール)(1986年

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シンガポールのUOBプラザ(1992年)

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東京・お台場のフジテレビビル(1996年)

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香川県庁本庁舎(2000年)

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マケドニア共和国国立銀行の建物



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