ムーサ・イブン・ジャファル(アル・カジーム):第7代イマームの生涯と宗派分裂
ムーサ・イブン・ジャファル(アル・カジーム)第7代イマームの生涯と学問、イスマーイール派との宗派分裂を詳述。信仰史と系譜をわかりやすく解説。
ムーサ・イブン・ジャファルは、アル・カジーム(怒りを制御する者)とも呼ばれ、父ジャファル・イブン・ムハンマドに次ぐシーア派7代目のイマームである。スンニ派からも高い評価を受けており、高名な学者とみなされている。シーア派ではイマームの問題で分裂が起きた。イスマーイール派はジャファル・イブン・ムハンマドの長男であるイスマーイール・イブン・ジャファルを次のイマームとすべきだとし、より大きなグループのジャファリー(またはトゥエルバー)はムーサ・イブン・ジャファルを次のイマームと見なしました。
生涯の概略
ムーサ・イブン・ジャファル(一般にムーサ・アル=カーズィムとして知られる)は、紀元745年頃に生まれ、一般的に799年(ヒジュラ183年)に没したとされる。彼は父のジャファル・イブン・ムハンマド(ジャファル・アッ=サーディク)の教えを受け継ぎ、神学、法学、道徳において重要な位置を占めた。ニックネームの「アル・カジーム」は「怒りを抑える者」「寛容な者」を意味し、彼の忍耐深さや寛容さを表している。
学問と教え
ムーサは父ジャファル・アッ=サーディクから伝えられたイマーム中心の教義を受け継ぎ、数多くの信徒や学生に教えを授けた。彼の伝える伝承(ハディース)はシーア法学(ジャアファリー学派)や神学の発展に寄与し、道徳・倫理、神の属性、イマームの権威に関する教説を強調した。学者たちは彼を敬虔で博識な人物と見なし、スンニ派側の学者からも尊敬を集めたという伝承が残る。
政治的状況と投獄
ムーサはアッバース朝の統治下で生きた。時のカリフとの関係は緊張することが多く、特に権力基盤を恐れる支配者側から何度も監視や軟禁、投獄の対象になったと伝えられている。伝承の多くは、ハールーン・アッラシード(在位:786–809)の時代に何度も囚われ、最終的に獄中で毒殺された可能性があると記す。しかし、具体的な経緯や責任者については史料や伝承に差異があり、学問的には諸説がある。
没後の遺産と聖廟
ムーサ・アル=カーズィムの墓所はイラクのバグダード近郊にあるとされ、トゥエルバー(十二イマーム派)の信徒にとって重要な巡礼地となっている。そこは「カーズィムayn(カーズィム廟)」として知られ、後世の信仰と記憶の中心になった。彼の忍耐や寛容は信徒の模範とされ、数多くの逸話や奇跡譚が伝えられている。
シーア派の分裂(イスマーイール派とトゥエルバー)
父ジャファル・イブン・ムハンマド(ジャファル・アッ=サーディク)の死後、イマーム継承をめぐってシーア内部に分裂が生じた。イスマーイール派はジャファルの長男であるイスマーイール・イブン・ジャファルを継承者と主張したが、イスマーイールが先に没した、あるいは公的には継承を否定したとする伝承の違いから両派に分かれた。一方で多数を占めるジャファリー(トゥエルバー、すなわち十二イマーム派)は、ムーサ・イブン・ジャファルを第7代イマームと認め、以降の継承を含めた体系が形成された。この分裂は信条や法学、指導体制に長期的な影響を与え、今日のシーア派内の主要な分派の起源となっている。
評価と影響
ムーサの評価は宗派を超えて高く、彼の人柄(忍耐、慈悲、学識)は多くの伝承で強調される。トゥエルバーにとっては十二イマームの一員として不可欠な存在であり、イスマーイール派にとっては分裂の契機となった歴史的な人物である。また、スンニ派の一部学者からも敬意を払われ、ムーサに帰される教説や伝承は広く流布した。法学的・神学的な影響は、後のシーア思想や宗教実践の形成に継続的に現れている。
補足と注意点
ムーサ・イブン・ジャファルの生涯に関しては、伝承・史料ごとに記述が異なり、投獄や死因、具体的な年次などに関しては学者間で解釈の差がある。ここに示した内容は主要な伝承と学界で一般に受け入れられている見解をまとめたものであり、詳細を確認する際は一次史料や専門書に当たることを勧める。
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