ネロ(ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス)—ユリオ=クラウディウス朝最後のローマ皇帝(紀元37–68年)

ネロ(ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス、37–68年)—ユリオ=クラウディウス朝最後の皇帝。母の陰謀、権力闘争、ローマ大火と芸術志向の波乱の生涯を解き明かす。

著者: Leandro Alegsa

ネロNerō Claudius Caesar Augustus Germanicus、紀元37年12月15日 - 紀元68年6月9日)は、ユリオ=クラウディウス朝の第5代、最後のローマ皇帝である。ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスとして生まれた。

ネロは大叔父のクラウディウスの養子である。54年10月13日、クラウディウスの死後、皇帝となった。クラウディウスは、ネロの母アグリッピナによって暗殺されたと思われる。アグリッピナは、ブリタニクス(クラウディウスの実子)が権力を握る前に、ネロの後継者を確保する動機があったのだ。

生い立ちと台頭

ネロはアグリッピナ(アグリッピナ・マイナー)とルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの間に生まれ、ユリウス=クラウディウス家の血を引いていた。母アグリッピナは政治的に野心的で、甥にあたる皇帝クラウディウスの後継者としてネロを養子にさせた。政治顧問としては哲学者セネカや宦官ブルッスス(ブルスス)が重用され、当初は穏健な統治が行われた。

治世(54–68年)の概要

治世初期:54年から初期には、セネカやブルッススの助言により行政の安定や法の整備が図られ、市民的施策も行われた。

権力の集中と私的行動:やがてネロは母アグリッピナと対立し、59年に彼女を排除(暗殺とされる)したと伝えられる。同じ頃、クラウディウスの実子ブリタニクスも生命を失い(55年頃)、ネロの関与が疑われる。皇后オクタウィア(クラウディウスの娘)との離別と愛妾ポッパエア・サビナとの関係も政局に影響した。

文化と芸術、公共活動

ネロは自らを芸術家・詩人・俳優として表現することを好み、音楽・演劇・競技会への参加や主催を行った。こうした姿勢は当時の貴族や元老院には軽蔑され、皇帝の公的威厳を損ねたと非難された。一方で公共事業も行い、特に64年のローマ大火後には都市再建を指導し、大規模な宮殿・庭園(後に「ドムス・アウレア/黄金宮」と呼ばれる)や街路改修などを実施した。

64年ローマの大火とキリスト教徒の弾圧

64年に発生したローマ大火は市街の大部分を焼失させ、多大な被害をもたらした。古代の史料はネロが火事の最中に歌ったなどの伝説を伝えるが、信頼性は定かでない。火災後、ネロは再建計画を進めたが、再建資金確保のため高額な課税や財産没収も行った。

大火の責任をそらすためにネロは、当時新興宗教であったキリスト教徒を「放火犯」として糾弾し、拷問や処刑を行ったとされる。これがローマ帝国内での初期の組織的な迫害の一つと見なされている。

陰謀と内憂、崩壊

ネロの統治は次第に専制化し、財政・人事の乱行が増えると貴族や軍の不満が高まった。65年には有名なピソ同盟(ピソの陰謀)が発覚し、多数の元老や著名人が関与の疑いで処罰された。68年にはガリアの総督ウェッロ(ヴィンデックス)の反乱、スペイン・ヒスパニアのガルバらが蜂起し、ローマ軍と元老院の支持を失った。

元老院に「敵」と宣告され、ネロは逃亡を余儀なくされる。最終的に援軍が失われ、68年6月9日に自害して没した。伝承では彼の最期の言葉として「Qualis artifex pereo(なんという芸術家がこの世を去るのだ)」が伝えられるが、史料の確かさには疑問がある。

死後と評価

ネロの死はユリオ=クラウディウス朝の終焉を意味し、年を経てフラヴィウス朝(ネロ没後のドミティアヌスらによる新王朝)へと移行する契機となった。古代の主要史家(タキトゥス、スエトニウス、カッシウス・ディオなど)は概してネロを暴君・享楽主義の象徴として描いており、その記述は後世の「ネロは悪い皇帝」というイメージを確立した。

近年の歴史学では、これら古代史料の多くが元老院階級の視点や偏見を反映している点に留意し、ネロの治世を再評価する試みもある。文化・芸術面での支援や都市再建、法的改革など肯定的側面を強調する研究も出てきているが、一方で暗殺や政治弾圧、財政の乱用など否定的事実も多く、総合評価は依然として議論の的である。

家族と主要人物(要点)

  • 母:アグリッピナ(アグリッピナ・マイナー) — 政治的な後押し者であったが後に対立。
  • 養父:クラウディウス(ローマ皇帝) — ネロを養子にして承継させた。
  • 師・顧問:セネカ(哲学者)・ブルッスス(宦官) — 治世初期に重要な役割。
  • 妻:オクタウィア(クラウディウスの娘)→後にポッパエア・サビナと結婚。

史料と研究

ネロに関する主要な古代史料はタキトゥス『年代記』、スエトニウス『ローマ皇帝伝』、カッシウス・ディオの歴史などである。これらはいずれも派手な逸話や悪評を多く伝えるため、現代史学は考古学・碑文・貨幣史料などと合わせて慎重に再検討を行っている。

ネロはその生涯と行動によって「暴君」「芸術家皇帝」「帝政末期の象徴」など多様な評価が存在する人物であり、ローマ史上もっとも論争の的となる皇帝の一人である。

皇帝としてのネロ

ネロはその治世において、外交、貿易、そして帝国の文化資本の整備に力を注いだ。彼は劇場の建設を命じ、運動競技を奨励した。

彼の治世は、パルティア帝国との戦争と和平交渉の成功、ブリテンの反乱の鎮圧、第一次ローマ・ユダヤ戦争の開始などであった。

64年、ローマ大火でローマのほとんどが焼失した。68年、ガリアでヴィンデクスの反乱が起こり、その後イスパニア(スペイン)でガルバが即位し、ネロは王位から追われることになった。暗殺されそうになったネロは68年6月9日に自殺した。

ネロの支配は、しばしば専制と浪費と結び付けられる。母親と義兄弟を含む多くの処刑で知られている。

ネロは、ローマが燃えている間、バイオリンを弾いた皇帝として知られている。実はバイオリンは発明されていなかった。当時ネロはローマにおらず、火事を知ると救援活動を指揮するために戻ってきた。

また、キリスト教徒を迫害した。しかし、古代の資料には、ネロが在位中もその後も庶民の間で人気があったことを示すものもある。

ネロの大理石の胸像(ヴェルサイユ宮殿)Zoom
ネロの大理石の胸像(ヴェルサイユ宮殿)



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