教皇ハドリアヌス1世(700年ごろ–795年)
教皇ハドリアヌス1世は772年から795年までローマ教会を率い、ランゴバルド族やカール大帝と交渉し、第2ニカイア公会議でのイコン崇敬回復を支持した。
概要
教皇ハドリアヌス1世(700年ごろ – 795年12月25日)は、772年から没するまでローマ司教を務めた。彼の長期にわたる在位は、イタリアで激動が続いた時期に重なり、ランゴバルド族の野心、ビザンツ側の利害、そしてカール大帝のもとで勢いを増していたフランク族の力が、東方の教会論争と交錯していた。ハドリアヌスの外交と判断は、教皇庁の政治的立場と、聖像をめぐる議論における役割を形づくった。
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5 画像政治的背景とフランク王国との関係
教皇就任の直後、ハドリアヌスはランゴバルド王デジデリウスから圧力を受けた。デジデリウスはローマの領域を脅かしていたのである。単独では対抗できなかったハドリアヌスは、カール大帝に軍事的・政治的支援を求めた。両者の提携は、フランク軍によるイタリアでのランゴバルド勢力征服へと結実し、ローマの安全を高めるとともに、教皇庁とカロリング朝宮廷との保護関係を固めた。この同盟は、教皇の世俗的な役割と、新たに台頭するヨーロッパ諸王権との関係を定義づけるうえで重要だった。教皇ハドリアヌス1世に関する同時代史料の概観も参照できる。
宗教政策と第2ニカイア公会議
ハドリアヌスの在位は、重大な神学上の論争とも結びついていた。787年の第2ニカイア公会議は、聖像をめぐる争点を扱い、礼拝と信心のためにイコンの崇敬を回復した。ハドリアヌスはこの公会議の結論を受け入れ、崇敬と、神にのみ帰すべき礼拝とを区別しつつ、ローマをイコン崇敬を認める側に位置づけた。この公会議の結果は東西関係に影響を与え、キリスト教の典礼と教義の歴史における重要な出来事であり続けている。公会議の背景は第2ニカイア公会議で確認できる。
行政、後援、注目すべき行為
在位中、ハドリアヌスは教会行政、司教や統治者との書簡往来、ローマの教会と慈善施設の維持に取り組んだ。彼はビザンツ当局と交渉し、教皇領とその権利を守るための措置を講じた。彼の書簡と勅令は、管轄権をめぐる紛争を整理し、教会の世俗的責務を管理するための継続的な प्रयासの一部だった。彼の外交文書や教皇行為の簡潔な集成は、専門的な資料集としてランゴバルド族との関係やカール大帝との往復書簡を通じて参照できる。
遺産と歴史的意義
ハドリアヌス1世は、重要な教義上の立場を確認しつつ、複雑な政治の流れを乗り切った教皇として記憶されている。フランク王権との同盟は、中世ヨーロッパが形成されつつあった時期に、ローマの安全と影響力を確保する助けとなった。第2ニカイア公会議の決定を受け入れたことは、聖像をめぐる広範な論争において重要な立場表明だった。後代のいくつかの教皇ほど有名ではないものの、ほぼ四半世紀に及ぶ穏健な統治は、精神的指導と世俗権力のあいだに立つ教皇庁の役割へ長く残る印を刻んだ。
注目すべき事実
- 772年から795年まで在位し、8世紀としては比較的長い教皇在位の一つだった。
- ランゴバルド族の圧力に対抗するため、カール大帝に軍事支援を求めた。
- イコンに関する第2ニカイア公会議の決定を受け入れた。
- 教皇領の保護と、ローマの教会および慈善活動の維持に努めた。
著者
AlegsaOnline.com 教皇ハドリアヌス1世(700年ごろ–795年) Leandro Alegsa
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