本文へ移動

教皇ゲラシウス2世―生涯、教皇職と叙任権闘争における役割

教皇ゲラシウス2世(1118年選出、1119年没)は、皇帝ハインリヒ5世との対立再燃の中でローマ教会を率い、亡命と拘束を経験しながら教皇権の独立を守ろうとした。

概要

教皇ゲラシウス2世は、ガエータのジョヴァンニとして生まれ、1118年1月24日から1119年1月29日に死去するまでローマ司教を務めた。その短い教皇在位期間は、教皇権と神聖ローマ皇帝の間で長く続いた叙任権闘争の激動期にあたる。まだ助祭であった時に選出されたゲラシウスは、即座に皇帝派勢力と、皇帝の支援を受ける対立教皇からの反対に直面した。

画像ギャラリー

5 画像

生涯と聖職者としての経歴

ジョヴァンニは南イタリアの海岸都市ガエータの出身で、ローマの貴族家系に属していた。選出以前には教皇庁で要職を歴任し、枢機卿のなかでも有力な人物であった。1118年1月の教皇選出に際しては、聖職位階を速やかに進める必要があったため、司教叙階を受けて教皇としての完全な職務を担うべく、同年3月9日に司祭に叙階された。

選出と直後の危機

ゲラシウスの即位は、俗人叙任をめぐる緊張が再燃した時期と重なった。皇帝ハインリヒ5世はローマにおける皇帝の影響力を主張し、自らの候補者を教皇として擁立しようとした。選出後まもなく、ゲラシウスは皇帝の利害と結び付いた敵対的なローマ貴族に捕らえられ、虐待を受けた。その後、皇帝は対立教皇の選出を支援し、この人物は後世にグレゴリウス8世として知られるようになった。

亡命、措置、帰還

ローマを離れることを余儀なくされたゲラシウスは南イタリアへ逃れ、さらに支持を集めるためフランスへ向かった。亡命先で彼は決然とした措置を取り、ローマ教皇座の教会法上の権利を主張して、ハインリヒ5世と対立教皇を公に非難し破門した。南イタリアのノルマン人支配者の軍事的支援を受け、ゲラシウスは1118年7月、その保護のもとでローマへ帰還することができた。しかし都市の情勢はなお不安定であり、皇帝の影響力は引き続き教皇権の行使を複雑にした。

最後の旅と死

自らの立場を強化するため、ゲラシウスはフランスの宮廷や修道院指導者の間に同盟者を求めて北方へ旅した。この旅の途中、彼は当時を代表する宗教的・政治的中心地であった大修道院クリュニーに到達した。教皇権の独立に対するより広範な支持を確保しようと努める最中、1119年1月29日に同地で死去した。

遺産と意義

  • ゲラシウス2世は、叙任権闘争において皇帝権力の侵食に対し教皇の権利を守った人物として主に記憶されている。
  • 助祭から教皇となるまでの急速な叙階、ローマからの逃亡、そしてノルマン人の保護への依存は、12世紀初頭における教皇権の政治的脆弱さを示している。
  • ハインリヒ5世と対立教皇の破門は、世俗の統治者と教会権威の関係を規定するための闘争が続いていたことを強調するものであった。

この時代の教皇職とより広い対立については、中世教皇権および叙任権闘争の概説、ならびにクリュニーのような修道院がヨーロッパの政治に果たした役割に関する資料が背景理解に役立つ。ゲラシウス2世の短いながらも波乱に富んだ教皇在位と、教皇と皇帝の長期にわたる争いにおけるその位置づけは、追加の史料・研究文献でも扱われている。

教皇史と関連項目

著者

AlegsaOnline.com 教皇ゲラシウス2世―生涯、教皇職と叙任権闘争における役割

URL: https://ja.alegsaonline.com/art/128869

共有