教皇グレゴリウス2世(約669年 - 731年2月11日)は、715年5月19日から死去するまでローマの司教を務めた。イタリアで生まれ、ローマ教会の制度の中で育った彼は、ビザンツ帝国がなおイタリアに権威を主張し、ランゴバルド人が教皇領へ圧力をかけ、北ヨーロッパでキリスト教宣教が広がっていた、政治的不安定の時代に教皇に就いた。

背景と選出

グレゴリウスは、選出された時点ですでに経験豊かな聖職者だった。彼の教皇職は、司牧と積極的な外交を組み合わせたものだった。イタリア人としてローマ教座の司祭であった彼は、初期中世の教皇に典型的な典礼・行政・防衛の務めを担った。彼はローマの司教として89代目に数えられ、伝統的な教皇一覧でも89人目とされる。

政策と行動

グレゴリウス2世が最もよく知られているのは、二つの大きな課題への対応である。第一に、720年代にビザンツ皇帝が始めた聖像破壊政策に反対し、聖像崇敬を擁護して、皇帝勅令に対する教皇の神学的立場を明確にした。第二に、宣教活動を積極的に支援したことで、アングロサクソン人やゲルマン諸民族の間で活動する宣教師を後援し、支持の書簡や司教任命を通じて、イタリア外での教会の存在を強めた。

ランゴバルド人とビザンツとの関係

彼の治世では、中央イタリアで勢力拡大を図るランゴバルド人と、イタリアでの影響力が弱まりつつあったビザンツ当局との緊張が絶えなかった。グレゴリウスは交渉し、抵抗し、ときには地元勢力を用いて教会領を守った。こうした争いは、教皇外交がコンスタンティノープルへの単独依存から徐々に離れていくことにつながった。

グレゴリウス2世はまた、ローマの教会行政を監督し、修道院生活を奨励し、大聖堂や聖所の修理と建設を命じた。外圧への対応と宣教支援は、後代の教皇が踏襲することになる型を形作り、北ヨーロッパの支配者とのより緊密な結びつきと、より自立した教皇政策へとつながった。