教皇ピウス7世(バルナバ・ニッコロ・マリア・ルイジ・キアラモンティ)
教皇ピウス7世(1742年–1823年)は、ナポレオン時代にカトリック教会を導き、1801年の政教協約を締結した。フランスでの拘禁を経験し、ナポレオン後の教会と教皇領の復興を進めた。
教皇ピウス7世は、バルナバ・ニッコロ・マリア・ルイジ・キアラモンティとして1742年8月14日に生まれ、1800年3月14日から1823年8月20日に死去するまで、第252代ローマ教皇を務めた。その教皇在位はフランス革命とナポレオン時代の動乱のなかで展開した。教皇庁とフランスの和解を交渉したこと、ナポレオン・ボナパルトとの困難な関係、そして1814年以後のヨーロッパ政治秩序の再編期に教会を導いたことによって、特に知られている。
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10 画像生涯初期と選出
キアラモンティは北イタリア出身で、教会の位階を進む以前はベネディクト会修道士および法学者であった。19世紀初頭に教皇へ選出された彼は、複数のヨーロッパ諸国における革命政策と世俗的改革によって弱体化した教会を受け継いだ。その選出には、近代国家との関係を安定させうる、融和的で法的見識を備えた教皇を求める意向が反映されていた。
教皇在位中の主な行動
ピウス7世の初期における最も重要で影響の大きい行為の一つは、フランスとの1801年の政教協約であった。これは革命によって生じた変化を認めつつ、同国における教会組織の多くを再建した。彼はパリへ赴き、1804年の皇帝戴冠式を含む、ナポレオンの台頭をめぐる行事に参加した。その後、ナポレオンが教皇領への支配を強めたことで両者の関係は決裂した。教皇はフランスによる領土の接収に抗議し、ついには逮捕され、数年間フランスに拘禁された。
- 1801年の政教協約:聖職者と公的礼拝を回復するため、革命後のフランスと結ばれた外交上の合意。
- ナポレオンとの対立:当初は協調的であったが、のちに敵対関係となり、ピウスは1809年から1814年にかけてフランス当局に拘束された。
- 復興への取り組み:ナポレオン失脚後、教皇権の回復と教区の再編に努めた。
ナポレオンの敗北後、ピウス7世は宗教諸機関の復興と、革命期に抑圧された修道会の再興に中心的な役割を果たした。1814年にはイエズス会を正式に復興し、これはカトリック教育と宣教活動に長期的な影響を及ぼした注目すべき措置であった。また、戦後秩序の形成と教皇領の再建に関する議論にも間接的に関与した。
遺産と特筆すべき事項
ピウス7世の長い教皇在位は、外交、断固とした姿勢、法的な手腕を組み合わせ、激しい政治的変動を乗り越えたものとして記憶されている。彼は新しい政治的現実に適応しながら、教皇職の霊的独立を守ろうとした。その生涯と教皇職は、伝記、教皇記録、ナポレオン時代の教会に関する研究によって広く記録されている。詳しくは簡潔な伝記、教皇一覧、または百科事典的資料を参照。
彼は23年以上にわたり教皇を務めた後、1823年8月20日に死去した。歴史家はしばしば彼を、ヨーロッパ史上でも最も動揺の大きい時期の一つを通じて、カトリック教会の制度的生命の本質的要素を守り抜いた重要人物とみなしている。
著者
AlegsaOnline.com 教皇ピウス7世(バルナバ・ニッコロ・マリア・ルイジ・キアラモンティ) Leandro Alegsa
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