トーマス・ウォルジー(1471–1530)—ヘンリー8世の枢機卿・国政の中心人物

トーマス・ウォルジーThomas Wolsey、生年は1471年から1476年の間とされる、サフォークイプスウィッチ生まれ、1530年11月29日没)は、イングランドの政治家・高位聖職者で、1515年に枢機卿に任命された。イングランド王ヘンリー8世の治世において長く国政の中心を担い、実質的な首相(王の最側近かつ行政の最高責任者)として強い影響力を持ったが、後に失脚した。

生い立ちと出世

ウォルジーは比較的庶民的な家に生まれ、若年期は地方の学校で教育を受けたとされる。優秀さが認められてオックスフォード大学に進み(特にマグダレン・カレッジとの関係が知られる)、学問と教会での職を通じて出世した。後に王室の礼拝係(almoner)などを務め、ヘンリー7世・8世両王の下で次第に信頼を勝ち取っていった。

権力の頂点:枢機卿・宰相として

ウォルジーは1514年にヨーク大司教など主要な教会職を与えられ、1515年にはローマ教皇から枢機卿位を受けると同時に国王の長年の信任を背景に実務的な国政運営を担った。国王の外交通や財政、司法改革に深く関わり、以下のような業績が挙げられる。

  • 外交:大陸諸国との同盟・和平交渉を担当し、1520年のフランス王フランソワ1世との「布地の野宴(Field of the Cloth of Gold)」など大規模な外交行事の立案に関与した。
  • 行政改革:王室財政の管理強化、税制改正、巡回裁判所やStar Chamber(星室裁判所)を通じた司法の効率化を推進した。
  • 教育・建築:ハンプトンコート宮殿の拡張を含む大規模建築事業や、オックスフォードでの教育機関創設(後のカーディナル・カレッジはのちにクリスト・チャーチへと発展)に資金と影響力を注いだ。
  • 教会職の集中:国王の信任を背景に、複数の司教位や収入源を抱えるに至り、当時としては極めて大きな富と権力を持っていた。

失脚の過程

ウォルジーの絶頂期は、逆に彼への反発と嫉妬を招いた。王がアン・ブーリンとの結婚のためにキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚を無効にしようと決意した際、ウォルジーは教皇との交渉を任されたが、期待された決着を得られなかった。教皇やローマ法廷との調整が難航する中で、国内の保守派や王宮内のライバル(ハワード家など)を含む敵対勢力が結束し、1529年以降徐々に権力を削がれていった。

最終的にウォルジーは王の信頼を失い、同年に枢機卿としての機能や世俗的権限を剥奪され、実質的に首相職から退いた。1529年には「プラエムヌイレ(praemunire)」に基づく告発を受け、1530年に裁判にかけられることになったが、裁判を待つ間に身体も衰え、裁判に向かう途上で死去した。

最期と評価

1530年11月29日、ウォルジーは裁判に向かう途中でリーセスター付近で亡くなったとされる。生前は王権のために多大な行政能力と外交手腕を発揮し、王室の強化と国政の近代化に寄与した一方で、教会的特権の集中や個人的な富の蓄積、権力の行使のやり方が反発を招いたことも事実である。

遺産

ウォルジーの遺したものは複雑である。王政の中央集権化や官僚制度の基礎構築に寄与した点は評価されるが、ローマとの対立やヘンリー8世の離婚問題を巡る失敗が彼の政治生命を断った。ハンプトンコートやオックスフォードの教育機関といった物質的遺産は今日でも彼の存在を伝えている。

参考となる主要なポイント

  • 出自は比較的低く、学問と教会職を通じて出世した。
  • 1515年に枢機卿となり、王の主要な顧問として長年権勢を振るった。
  • 外交・財政・司法の分野で重要な改革や政策を推進した。
  • ヘンリー8世の離婚問題を巡る交渉の失敗が決定打となり、1529年以降に失脚、1530年に没した。

年表

  • 1471年から1476年の間:イプスウィッチで生まれる。
  • 1498年3月10日:司祭に叙階される。
  • 1509:リンカーン学長、王室侍従長および公使館員となる。
  • 1514:トーマス・モア(Thomas More)を彼の収入の世話をするため、彼に仕えるようにした。
  • 1515年: ヨーク大司教、イングランド大法官。
    • 1515年 09月 10日:教皇レオ10は、ウォルジーを枢機卿に任命しました。
  • 1516:レオ10世から枢機卿代理の称号を得る。彼は30もの修道院の所有権を手に入れ、教皇候補に名乗りを上げた。
  • 1518年: バース・アンド・ウェルズ司教(ヨーク大司教在任中)。
  • 1522年 バース・アンド・ウェルズ司教区を辞す
  • 1525年 オックスフォード大学にカーディナル・カレッジ(後のクライスト・チャーチ)を創設、オックスフォード大学で最も大きく、最も裕福なカレッジの一つとなる。
  • 1529年:教皇の機嫌を取りたいウォルゼーの様々な態度は、国王との信用を失墜させる結果になった。秋になると、アン・ブーリンに促されて、ヘンリー8世はトマス・ウォルシーを告発した。彼は大法官の職を解かれ、ヘンリーがウェストミンスター宮殿に代わって住むことにしたホワイトホール宮殿を含む財産を奪われた。
  • 1530年11月29日。ロンドン塔に移送中、レスターで過労死した。

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