1904年から1912年まで、彼はカルスの学校に通っていた。やがてヨーロッパ全体を巻き込む第一次世界大戦と、オスマン帝国におけるアルメニア人大量虐殺が勃発する中、チャレンツは1915年にコーカサス戦線に志願した。1917年から1918年にかけては、激戦地の一つであるカリン・エルズルムでの戦闘に参加しており、こうした戦場体験はいくつかの詩作に色濃く反映されている。
イェギシェ・チャレンツ(本名ソゴモニアン、1897–1937)は、アルメニア文化の近代化を牽引した詩人の一人であり、国内で広く愛された存在だった。一方で、1930年代のソ連体制の下で書かれた詩の中には体制礼賛的な表現も見られ、特に有名な詩『メッセージ("Message")』には、当時の指導者を称えるような文言が含まれているとされる。詩の一節には「新しい光が世界を照らす…」のような楽観的・未来志向のイメージが繰り返される。
しかし同時に、この詩にまつわる「隠された読み」は長く語り草になっている。ある伝承では、詩の各行の頭文字をつなげると別のメッセージが現れ、それがアルメニア人へ向けた団結の呼びかけになっていたとされる。検閲の目を逃れて成立したとされるこの仕掛けについては、史料や証言に差があり、事実関係については諸説あるが、チャレンツの詩が単純な体制礼賛では収まり切らない複層的な意図を含んでいたことを示すエピソードとして広く語られてきた。
1937年、スターリン時代の大粛清の最中にチャレンツは当局により逮捕され、その後獄死したと伝えられている(当時の秘密警察はNKVD(ソ連国家保安機関、のちのKGBの前身))。正確な死因や取り調べの詳細は不明な点が多く、「消滅した」と表現されることもあるが、彼の死はアルメニア文化界に深い衝撃を与えた。
同時代の出来事として、エレバンの都市計画や建築に大きく関わった建築家アレクサンドル・タマニャン(Tamanian)についても、しばしば都市伝説が語られる。タマニャンはエレバンの新しいオペラハウスなど計画に携わったが、彼の没年や死因については諸説あり、「建設中の屋根から落ちた」という話も伝わる一方で、確かな史料に基づく説明は限られている。この種の逸話は当時の緊張と混乱を反映するものと考えられる。
戦後、政治状況の変化に伴ってチャレンツの評価は見直され、名誉回復や再評価が進んだ。今日では彼はアルメニア文学の近代化を代表する国民的詩人として広く称えられており、その詩作は国内外で読み継がれている。彼の作品は個人的体験、民族的記憶、近代的実験が交錯するものであり、単なるイデオロギー的表現を超えた多面的な価値を持つと評価されている。

