カール5世(1500–1558)|神聖ローマ皇帝・スペイン王—太陽の沈まぬ帝国

カール5世の生涯と統治を詳述。神聖ローマ皇帝・スペイン王として欧州と新大陸を支配した「太陽の沈まぬ帝国」の栄光と葛藤。

著者: Leandro Alegsa

チャールズ5世(カール5世)(2月24日 1500 -9月21日 1558)は、16世紀を代表する君主の一人で、1519年から神聖ローマ皇帝、1516年からカスティーリャ・アラゴン王(スペイン王としてはカール1世として知られる)、1506年からはブルゴーニュ公として低地の領主を務めました。ヨーロッパ大陸と新大陸(アメリカ)の広大な領域を一手に治め、「太陽の沈まぬ帝国」と形容されることがありました。

生い立ちと相続

父はフィリップ・ザ・ハンサム(オーストリアのマクシミリアン1世とブルゴーニュのマリアの息子)、母はジョアンナ・ザ・マッド(アラゴンのフェルディナンド2世カスティーリャのイザベラ1世の娘)で、ブルゴーニュ、ハプスブルク、スペイン王家という出自を通じて広大な相続を受けました。幼少期はフランドル(現ベネルクス地方)で育ち、フランス語、オランダ語、スペイン語、ドイツ語など複数言語に通じたとされます。

主要な治世と出来事

  • 皇帝選出と戴冠:1519年に神聖ローマ皇帝に選出され、1530年にはローマで教皇により皇帝として戴冠されました(戴冠はローマ・ボローニャで行われた)。
  • 宗教改革との対決:マルティン・ルターの宗教改革が帝国内で進展する中、1521年のヴォルムス帝国議会(ディエット・オブ・ヴォルムス)でルターと対峙し、その後もプロテスタント諸侯との緊張が続きました。最終的に1555年のアウクスブルクの和議で信仰選択(cuius regio, eius religio)が認められ、一定の妥協が成立しました。
  • 対外戦争:フランス王フランソワ1世とのイタリア戦争(対仏戦)を長年にわたり展開し、地中海方面ではオスマン帝国(スレイマン大帝)との抗争も続きました。これらは帝国の軍事・財政を大きく消耗させました。
  • 海外領土の拡大:アメリカ大陸の植民地(メキシコ、ペルーを中心とする地域など)からの富が帝国に流入し、スペイン領植民地の支配と資源の獲得は彼の治世の重要な側面でした(メキシコ、ペルー、ベネズエラなどを含む)。
  • 行政と統治:広大な多国籍領域を統治するため、各地に代理統治者(摂政や総督)を置き、各地域の慣習や法制度をある程度尊重しつつ中央の影響力を維持しようとしました。しかし領域の広がりと宗教・民族の多様性が統一的統治を困難にしました。

称号と「太陽の沈まぬ帝国」

His MajestyHis Imperial Majesty といった英語表現は、当時のヨーロッパ君主制に伴う皇家・皇帝としての称号の使われ方の一例で、チャールズ/カールの広大な支配領域に由来して、しばしば「in which the sun does not set(太陽の沈まぬ帝国)」という表現でその広がりを象徴的に表現されました。

退位と晩年

カルロスは度重なる戦争と統治の負担から疲弊し、1556年にスペイン領と低地・イタリア領を息子のフィリップ2世(スペインに譲り、帝国のドイツ・オーストリア関係の領地と神聖ローマ皇帝位は弟のフェルディナンド1世に譲りました。退位後はスペインのエクストレマドゥーラ地方にあるユステ(Yuste)の修道院に隠退し、そこで1558年に没しました。

評価と遺産

カール5世は、ヨーロッパと新世界をまたぐ多民族・多言語の帝国を統合しようとした点で歴史的意義が大きい一方、その広大さゆえに中央集権的な統治には限界があり、宗教改革や外征により領土の統治は常に危機にさらされました。彼の退位による領土の分割は、ハプスブルク家のスペイン系とオーストリア系という二系統支配の始まりを意味し、以後のヨーロッパ政治に長期的な影響を与えました。

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神聖ローマ皇帝シャルル5世



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