トーマス・ペラム=ホレス(第1代ニューカッスル公爵)—英国首相・ウィッグ政治家の生涯と政績

18世紀ウィッグの要、トーマス・ペラム=ホレス(ニューカッスル公)の生涯と首相としての功罪、外交と七年戦争への影響を詳述。

著者: Leandro Alegsa

Thomas Pelham-Holles KG PC FRS (1693年7月21日 - 1768年11月17日)は、第1代ニューカッスル・アポン・タイン公爵、第1代ニューカッスル・アンダー・ライム公爵。イギリスのウィッグ党の有力政治家であり、1760年代以前のウィッグ支配時代を代表する人物の一人である。生涯にわたり複数回にわたって政権の中心に立ち、通称はニューカッスル公爵と呼ばれた。

生い立ちと経歴の概略

ペラム=ホレスは貴族一家に生まれ、若くして政治の道に入った。政界では親族や有力者とのつながりを通じて勢力を築き、特にロバート・ウォルポール卿の庇護を受けて台頭した。ウォルポールの下で多くの実務を学び、以後長年にわたりウィッグ党の中核として活動した。

首相としての役割と政権運営

ニューカッスルは生涯で2度首相(庶民院の第一の長として政府を率いる立場)を務めた。最初の在任期は1754年から1756年、2期目は1757年から1762年である(在任期間の詳細は諸記録を参照)。当時のイギリス政治は党派的な配分と後援(パトロネージ)に大きく依存しており、ニューカッスルは豊富な人脈と派閥運営の巧みさで影響力を保った。

しかし首相としての評価は二分される。組織者・後援者(パトロン)としては非常に有能で、議会内での勢力結集や閣内の人事管理に長けていた一方で、外交的・軍事的危機における戦略眼や決断力の面ではしばしば批判を受けた。特に1756年の危機的状況や、その後に発展した七年戦争をめぐる初期対応は彼の弱点を露呈させ、政権に対する批判を招いた。

主要な業績と影響力

  • 長年にわたり内閣の要職や閣外における重要ポストを占め、ウィッグ党の政策形成や閣政運営に深く関与した。
  • 人事と後援網を通じて政界を動かす「党の組織化」に貢献し、地方の支持基盤や議席操作によって政権を維持することに成功した。
  • 1740年代から1750年代にかけて、ウォルポールやウィリアム・ピット(長老)ら優れた指導者の下で副官的役割を果たしたことで、実務面での能力を発揮した。
  • 1757年以降、より強力な軍事指導力を持つピット(長老)との協働によって、戦時期の行政を運営した時期もある。ピットの軍事的才能とニューカッスルの組織力を組み合わせることで、後の英仏の対立下で成果を挙げた側面もある。

批判と限界

一方で、外交面での慎重すぎる姿勢や、決断の遅さ、対外政策の一貫性欠如が批判された。1754–1756年の第一次内閣では政策の混乱が目立ち、これが後に軍事的な失敗と結び付けられてニューカッスルの支持基盤を揺るがした。歴史家はしばしば、彼を「優れた政党政治家だが、危機的な局面での最高指導者としては不十分」と評する。

晩年と評価

弟のヘンリー・ペラムが政権を主導していた時期にも協力し、その後ヘンリーの死去を経て自身が首相を務めた経緯がある。1757年以降は短期間にわたりロッキンガム卿らと歩調を合わせることもあったが、1762年を境に第一線から退き、やがて政界を離れた。晩年は政治の舞台から徐々に距離を置き、1768年に没した。未婚で子がなく、その遺産は親族や後継者に引き継がれた。

歴史的意義

ニューカッスル公爵は、18世紀のイギリス政治における「ウィッグ至上主義」の時代を象徴する存在である。軍事的・外交的指導力に乏しかった反面、政党組織の構築や議会運営、閣内調整においては非常に大きな影響力を持ち、その意味で18世紀英国の政治構造と政党運営の発展に重要な役割を果たした。

彼の業績と欠点は、同時代の有力指導者(ウォルポールやピット長老など)と比較されることが多く、優れた補佐役・組織者としての評価と、単独での指導力不足という評価が併存している。

ニューカッスル・アポン・タイン公爵 Thomas Pelham-Holles, 1st Duke of Newcastle upon Tyne, KG, PC, FRSの紋章Zoom
ニューカッスル・アポン・タイン公爵 Thomas Pelham-Holles, 1st Duke of Newcastle upon Tyne, KG, PC, FRSの紋章

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ニューカッスル公爵陛下



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