ダーウェント・バレー世界遺産:ダービー・シルクミル(ロンベス製糸工場)とは
ダーウェント・バレー世界遺産・ダービー・シルクミル(ロンベス製糸工場)の誕生から産業革命、労働史までを詳しく解説する保存史跡ガイド。
ダービーシルクミル(Derby Silk Mill)は、イギリスのダービーにある産業博物館で、現在は世界遺産「ダーウェント・バレー・ミルズ(Derwent Valley Mills)」の一部として保存されています。1717年から1721年にかけて建設された歴史的な旧製糸場の敷地を利用しており、当時の産業技術や労働環境を伝える重要な遺構です。ジョージ・ソロコールドがダーウェント川のほとりに築いたこの製糸場は、水車を動力源として機械化された絹糸生産を行うために設計されました。
機械化とロンベ家の役割
イタリアの優れた絹紡績(フィラティオーネ)技術を模倣したのがジョン・ロンベで、彼はイタリアで見聞きした機械のデザインを持ち帰り、イギリスで大量生産に適した装置を再現しました。ジョン・ロンベの行為は「産業スパイ」の初期例とされることがあり、彼の成功がイギリスの絹産業の機械化を大きく前進させました。
当時導入された大型の紡績機(当時は「投擲機」とも呼ばれた円形の装置)は、従来の少量生産型の紡績機とは一線を画し、一つの水車を動力源として多数の機械を同時に稼働させることで、はるかに大量の絹糸を効率的に生産できるようになりました。これによりイギリスの工場はイタリア産と競合するようになり、ロンベの製糸場は「工場制度」を取り入れた最初期の成功例と見なされています。
人物と伝説
伝えられるところでは、ジョン・ロンベは1722年に不自然な死を遂げ、その死因についてはイタリア側の報復説(毒殺説)などさまざまな説が残されています。彼の異母兄であるSir Thomas Lombe Knt.は1739年6月2日に亡くなり、財産は未亡人と2人の娘に相続されました。
同年、王室権限に関わる手続きの中で建物と機械のリースが扱われ、残りのリース期間がリーズのリチャード・ウィルソン・ジュニアに2,800ポンドで譲渡されたと記録されています。以後、この工場はリチャード・ウィルソンやロンドンの商人であるウィリアム・ロイドとサミュエル・ロイド、さらにトーマス・ベネットらの関与のもとで運営されました。
労働環境と社会的影響
当時の工場は単一の動力源(水車)と組織化された多数の労働力(当時の記録では約200~400人と推定されることが多い)を特徴とし、原料から上質の生糸へと一貫生産する体制を整えていました。しかし、工場での労働条件は必ずしも良好ではなく、長時間労働や低賃金、体罰の記録も残っています。ウィリアム・ハットンはかつて従業員として働いており、後に長時間労働や低賃金、暴力的扱いを体験したことを回想しています。
訪問者の記録からは、製糸場の環境についての多様な印象が伺えます。例えば、ボスウェルは1777年9月に訪れており見学記を残しました。一方で、ある訪問者(トリントンという記録)が工場の「暑さ、悪臭、騒音」に言及し、1835年にはフェアホルトが「不健康で貧しい子供たち」に衝撃を受けたという記録もあります。こうした証言は、産業化の光と影を示しています。
経営の変遷と産業の衰退
ウィルソンとロイドのパートナーシップは1753年に争いと訴訟のために解消され、ロイドは建物と機械の所有を維持しました。1765年にはトーマス・ベネットが抵当権を条件にロイドから工場を買い取りますが、やがてダービーや周辺地域(例えばチェシャー)での競合工場の出現や、国際的な競争激化により、シルク貿易そのものが徐々に衰退していきます。その結果、工場は長年にわたり使われない時期もありました。
1780年にはLamech Swiftが転借人となり、年賃料を支払って占有しました。広告記録によると1803年の段階でも「イタリアンワークス」はまだ絹を投げる(絹を撚る・加工する)用途で使われていたとされています。
労働運動との関わり
1833年以降、ダービーでは労働運動が盛んになり、1834年2月には大全国規模の労働組合が結成されました。製糸場自体が運動の中心だったわけではありませんが、当時の賃借人テイラーは組合員を雇用しない方針をとった使用者の一人でした。これに伴う対立や失業者の発生は地域で記録されており、現在もその時期を記念して毎年メーデー前の週末にダービー労働組合評議会が主催する行進が行われています。
衰退、転用、そして火災
製糸場をめぐる経営は波があり、テイラー家は1865年に破産し、機械の売却・賃貸などが行われました。当時は国際競争や経済状況の変化により業界全体が打撃を受けており、多くの製糸場が売却・閉鎖される事態となりました。
20世紀に入ると、1908年頃に化学製品メーカーのF.W. Hampshire and Companyがハエ取り紙や咳止め薬の製造のために建物を使用し、長年続いたシルク生産の歴史は一旦終わりを迎えます。しかし1910年12月5日午前5時に近隣の製粉所(Sowter Bothers)で発生した火災が波及し、シルク工場も大火に見舞われました。川側の壁が崩落し、建物はほぼ全焼しましたが、ボロー消防隊やミッドランド鉄道会社の尽力により塔の外郭や元の5階へ通じる出入口の輪郭など、いくつかの構造的痕跡は残されました。再建時には当初の5階建てではなく3階建てで復旧され、現在に至る外観の基礎となっています。
近代以降の変遷と博物館化
1920年代には建物の所有が電力会社に移り、店舗や作業場、食堂などとして部分的に使用されました。発電所の撤去後、かつての製糸工場の存在は一般から忘れられていたものの、地域の歴史保存の動きにより建物を産業博物館へ転用する計画が進められました。改修工事ののち、ダービーの産業史を伝える博物館として1974年11月29日に正式に開館しています。
文化的意義と世界遺産
ロンベス製糸工場(ダービー・シルクミル)は、近代的な工場制度の先駆けとして産業革命史における重要な遺産です。水力を用いた機械化、大量生産の仕組み、組織化された労働力といった要素を早期に実現し、その成功と問題点の双方が後の工業化過程に大きな影響を与えました。現在は地域の産業遺産を学べる場として保存・公開されており、ダーウェント・バレー全体が世界遺産に登録されることで、その価値が国際的にも認められています。
見学のポイント(主な展示内容)
- 建物自体の構造と再建の歴史(火災の痕跡や再建後の階構成)
- 18世紀の紡績機・投擲機に関する技術解説と模型
- 当時の労働者の生活や労働条件を伝える資料・証言
- ダービーと周辺地域における産業化の流れと社会的影響
ダービーシルクミルは、単に古い建物を見るだけでなく、産業技術の移転、労働史、社会変化を包括的に学べる場所です。訪問時には展示解説やガイドツアーを利用すると、当時の技術や生活の様子をより深く理解できます。

ダービー製糸場、おそらく1900年代初頭、1910年の火災前。

カテドラルグリーンから見た美術館の入り口と塔

アルフレッド・ジョン・キーンによる1910年の火災の水彩画。
2011年の閉鎖と休止
ダービー市議会は、シルクミル博物館や市内の他の博物館の再開発のための資金を確保するため、2011年4月3日に博物館を閉鎖した。2010年10月26日の閣議に提出されたStrategic Director of Neighbourhoods(Strategic Director of Neighbourhoods)の報告書(項目7)によると、8.6人の常勤雇用が失われるが、逆に「ルネッサンス・プログラム」の資金の損失を相殺するために197,000ポンドが節約されるとのこと。報告書には、2年間の期間が報告されているが、博物館の再開館日は記載されていない。
質問と回答
Q:ダービーシルクミルとは何ですか?
A:ダービーシルク工場は、イギリス・ダービーにある産業博物館です。以前はDerby Industrial Museumとして知られており、Derwent Valley Millsの一部である歴史的な旧製糸場を利用しています。
Q: イギリス初の製糸工場は誰が作ったのですか?
A: ジョージ・ソロコールドが1717年から1721年にかけて、ダーウェント川のほとりに英国初の製糸工場を建設しました。この工場は、水車を動力とする機械で絹糸を生産するために建てられました。
Q: ジョン・ロームはどのようにして機械の設計図を入手したのですか?
A: ジョン・ロームは、イタリアの絹産業で仕事をしていた時に、大量の絹を紡ぐための機械の設計図をコピーしていました。
Q:ジョン・ロンベはどうなったのですか?
A: ジョン・ロンベは1722年に不自然な死を遂げましたが、企業秘密を盗んだ復讐として、イタリア人に毒殺されたと考えられています。
Q: トーマス・ローム卿の後、誰が建物と機械を借りたのですか?
A: リーズのRichard Wilson juniorが、Thomas Lombe Knt.卿の後、Dame Elizabethから建物と機械をリースし、64年間のリース料として£2,800を支払いました。
Q: ロンブスの製糸場を成功に導いたものは何ですか?A: ロンブスの製糸工場が成功した理由は、円形紡績機(別名「投擲機」)の使用、単一動力源(水)、組織化された労働者(200-400人)、生糸から上質な糸までの全工程、つまり英国で初めて工場システムを成功させたと言われていることです。
Q:シルク工場の火災はいつ発生したのですか?A: 1910年12月5日午前5時、近くにあったSowter Brothersの製粉工場に火がつき、それがシルク工場に燃え移り、壁がダーウェント川に落ちるなど多くの被害を出しましたが、当初5階建てだったものが3階建てに建て替えられ、シルク工場は再建されました。
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