ドランシー収容所(Camp de Drancy)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに占領されていたフランスにあった主要な逮捕・中継(トランジット)収容所でした。パリ北東郊外のドランシーに位置し、もともとは1930年代に建設された集合住宅(Cité de la Muette)を転用して運営されました。

収容所は1941年に外国出身のユダヤ人や、ナチスやヴィシー政権が「排除すべき」とした人々を集めるために組織されました。逮捕された人々はここに一時的に収容され、やがて貨車に詰め込まれて東方の強制収容所・絶滅収容所へ送られました。多くはアウシュヴィッツなどで命を落としました。

  • 管理体制:当初はドイツの監督下でフランス人警察官が収容所の運営に関与していましたが、1943年以降、アロイス・ブルナー率いるドイツ人のSSが直接管理に乗り出し、強制送還の体制は一層効率化されました。
  • 検挙と送還:レジスタンスやロマ人なども含め、数万人がドランシーで検挙・拘束され、その多くが東方へ送られました。1942年のヴェロドローム・ダヴェール(Vel' d'Hiv)大逮捕(ラフル)など、大規模な一斉摘発の後に多くの人々がドランシー経由で送還されました。
  • 犠牲の規模:収容・検挙された人数は膨大であり、被害者の多くが最終的に殺害されました。収容所そのものでも過酷な生活条件、病気、飢え、不十分な医療により多くの犠牲が出ました。
  • 解放とその後:1944年に収容所が解放された時点で、約1,500人が収容所内に残っていました。アロイス・ブルナーは戦後に裁判(欠席裁判を含む)で死刑判決を受けましたが、判決の執行を免れ、2010年まで逃亡生活を続けたまま亡くなりました。

戦後、ドランシー収容所に関するフランス国内での責任問題や協力の程度についての議論や裁判が繰り返されました。フランス警察や官僚機構の一部がナチスの指令に協力したことが明らかになり、歴史的・道徳的な検証が進められています。

現在、ドランシーの敷地や周辺には記念碑や追悼施設が設けられ、ホロコーストや第二次世界大戦中の迫害の記憶を後世に伝える拠点となっています。教育や追悼活動を通じて、この悲劇を忘れない取り組みが続けられています。