東プロイセン(Ostpreußen)とは:歴史・領土変遷とケーニヒスベルク(現カリーニングラード)
東プロイセンの歴史と領土変遷、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)の変貌を地図と年表で丁寧に解説。戦後の住民移動と文化変容も紹介。
東プロイセン(ドイツ語:Ostpreußen、ポーランド語:Prusy Wschodnie、リトアニア語:Rytų Prūsija、ラテン語:Borussia orientalis、ロシア語:Восточная Пруссия, Vostochnaya Prussiya)は、バルト海南東岸に位置した歴史的地域で、長い間プロイセン王国およびその後のドイツ国家の一部でした。行政的には18世紀後半から20世紀中盤にかけて幾度か再編が行われ、首都は伝統的にケーニヒスベルク(現:カリーニングラード)でした(ケーニヒスベルク)。以下に、その成立から現在に至るまでの主要な歴史的変遷、領土の変化、文化的特徴と戦後処理についてわかりやすく整理します。
歴史概観
中世から近世:もともとこの地域にはバルト系の旧プロイセン人(ケルトではなくバルト語族)がおり、13世紀にドイツ騎士団(テウトニック・オーダー)が進出して領国を築きました。1525年に騎士団国家が世俗化されてプロイセン公国となり、プロイセンが徐々にプロテスタント文化圏として発展しました。1618年以降はブランデンブルク選帝侯との個人連合を通じて、やがてプロイセン王国の主要部分となります。
近代の行政変化:近代に入ると行政区画が整備され、1773年にはプロイセン王国の一州として東プロイセンが成立しました(以後、時期により合併・分離を繰り返します)。1829年から1878年までは東プロイセンと西プロイセンが合併して「プロイセン州(Provinz Preußen)」となり、1878年に再び東西に分割されて東プロイセンが復活しました。1871年以降はドイツ帝国の一部となり、ドイツ帝国、その後のワイマール共和国やナチス・ドイツの時代も通じて同地域は重要な位置を占めました。
領土と人口
東プロイセンはバルト海に面し、内陸部はポーランドやロシア、リトアニアに接していました。地域内にはドイツ人の他に、ポーランド語話者、リトアニア語話者、旧プロイセン語(消滅したバルト系言語)など多様な民族・言語集団が混在していました。19世紀から20世紀初頭にかけてはドイツ化政策や経済発展によりドイツ語話者の比率が高まりましたが、農村部などにはポーランド語やリトアニア語を用いる住民も多く残りました。
第一次世界大戦後〜第二次世界大戦前
第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制の下、東プロイセンはドイツ本土から地理的に分断されることになりました(いわゆる「ポーランド回廊」や自由市ダンツィヒの設定)。一方で東プロイセン自体は主にドイツ領に残され、第一次・第二次の間もドイツ国内の州として存続しました。ケーニヒスベルクは学術・文化の中心であり、哲学者イマヌエル・カントなど著名な人物ゆかりの地でもあります。
第二次世界大戦と戦後処理
第二次世界大戦後の情勢変化はこの地域に決定的な影響を与えました。第二次世界大戦でナチスドイツが敗北すると、ヤルタ会談・ポツダム協定などに基づき国境の再編が行われ、東プロイセンは占領区域に応じて分割されました。
- 北部の中央・沿海部(ケーニヒスベルク周辺)はソ連(ロシアSFSR)に編入され、1946年に都市名はカリーニングラードと改称されました。現在はロシア連邦カリーニングラード州(飛び地)です。
- 南部と西部の広い部分はポーランドに割譲され、現在は主にワルミアン-マズール県などに含まれます。
- また、戦前にドイツ領だったクライペダ(メーメル)地域などは複雑な経緯を経てリトアニア領となる部分もあり、ソ連時代にはリトアニアSSRに編入された地域もあります(ただし東プロイセン本体の大部分はロシアとポーランドに分割されました)。
この過程で多くのドイツ人住民は戦争の混乱の中で避難・逃亡し、戦後にはソ連・ポーランド当局による追放や移住政策により旧住民の大部分がドイツ本土へ移されました。代わってソ連側・ポーランド側からの移住者や入植者が入り、人口構成は根本的に変化しました。
文化・経済・遺産
東プロイセンは農業が盛んな地域であると同時に、ケーニヒスベルクを中心に学術・文化面でも重要でした。ケーニヒスベルク大学(アルベルトゥス大学)は哲学や法学の拠点で、カントなどの学者を輩出しました。建築ではドイツ・ゴシック様式の教会や城郭(例えばマルボルク城とは別に各地の城塞)などが見られます。戦争で多くの建造物が破壊されましたが、今日もポーランドやロシア側に残る遺構があり、歴史研究や観光の対象となっています。
現在の状況
戦後の分割以降、かつての東プロイセン地域は国により行政区画が定められています。ロシア側のカリーニングラード州は軍事的・戦略的にも重要であり、ポーランド側はワルミアン-マズール県などとしてポーランド国内に編入されました。両国ともに第二次大戦以前のドイツ文化遺産の保存や研究に一定の関心を示していますが、言語・民族構成は1945年以前とは大きく異なります。
まとめ(要点)
- 東プロイセンは歴史的にプロイセン王国・ドイツの重要な州であり、首都はケーニヒスベルク(現カリーニングラード)でした。
- 行政上は1773年に州として整備され、その後1829–1878年の合併期間を経て19世紀末から20世紀中盤まで存在しました。
- 第二次世界大戦後、地域はソ連(ロシアSFSR、リトアニアSSR)とポーランドに分割され、ケーニヒスベルクは1946年にカリーニングラードと改名されました。
- 戦後の人口移動により、旧来のドイツ人住民は大部分が避難・追放され、地域の民族構成と文化景観は大きく変化しました。
東プロイセンの歴史は中世の騎士団時代から近代の国民国家形成、そして第二次大戦後の国境再編までを含む複雑なもので、現在のロシア・ポーランド・リトアニアの国境や地域社会の成り立ちを理解する上で重要な地域です(参照:第二次世界大戦, ソ連, ポーランド)。
関連ページ
- 東プロイセンの都市・町のリスト
質問と回答
Q:東プロイセンとは何ですか?
A: 東プロイセンは、1773年から1829年までプロイセン王国の州であった。
Q: 東プロイセンはいつドイツ帝国に属していたのですか?
A: 1878年から1918年まで、東プロイセンはドイツ帝国の一部でした。
Q: 東プロイセンの首都は何でしたか?
A: 東プロイセンの首都はケーニヒスベルクでした。
Q: 第二次世界大戦後、東プロイセンはどうなったのですか?
A:第二次世界大戦でナチス・ドイツが敗れた後、ソビエト連邦(ロシア連邦、リトアニア連邦)とポーランド(ワルシャワ・マスール自治州)に分割されました。
Q:ケーニヒスベルクは戦後、何に改名されたのですか?
A:ケーニヒスベルクは1946年にカリーニングラードに改名されました。
Q: 戦後、東プロイセンのドイツ系住民はどうなったのですか?
A:ドイツ系住民は疎開するか追放された。
Q: 東プロイセンの他の言語での呼称は何ですか?
A: 東プロイセンはドイツ語でOstpreußen、ポーランド語でPrusy Wschodnie、リトアニア語でRytų Prūsija、ラテン語でBorussia orientalis、ロシア語でВосточная Пруссия (Vostochnaya Prussiya)と言います。
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