ポワチエのアルフォンスまたはアルフォンソまたはアルフォンス1220年11月11日 - 1271年8月21日)は、フランス王家カペー朝の王子で、1225年からポワトゥー伯(ポワチエ伯)を称し、後にトゥールーズ伯(通称アルフォンソ2世)となった有力貴族である。

出自と家族

アルフォンスはフランス王ルイ8世とカスティーリャ王女ブランシェ(ブランカ)の子で、王族として生まれた。兄に後の聖王ルイ9世、弟にシチリア王シャルル1世(シャルル・ダンジュー)を持ち、カペー朝の重要な一員として王府の政治に深くかかわった。

結婚とトゥールーズ継承

南フランスのアルビ派と王権の問題を決着させた国際的取り決めの一つであるパリ条約(1229年に結ばれたアルビ派問題の解決に関する条約)では、ルイ王の兄弟がトゥールーズ家の当主レイモン7世の娘ジョアン(Jeanne)と結婚することが定められた。そのため、1237年にアルフォンスはジョアンと結婚した。ジョアンを通じてアルフォンスはトゥールーズに関する相続権を得、父系の封土に南仏大領の一部が加わることになった。実際には、義父レイモン7世の死去後(1249年)にトゥールーズ伯位を継承し、以後アルフォンソ2世と称された。

政治的役割と統治

アルフォンスは兄ルイ9世の不在時に王国の実務を託されることが多く、特にルイの第七回十字軍(1248年頃)参加中には王国の政務・治安維持を任された。王家の有力な兄弟として、中央権力の確立や地方統治の強化に貢献し、トゥールーズやポワトゥーでの領国行政・司法制度の整備、地方貴族の抑制、王権側による巡視・代官(バイユ)の設置などを推し進めたとされる。

また、アルフォンスは王室の信任の下で外交・軍事面でも一定の役割を果たし、南仏の安定化と王権拡大に寄与した。彼と妻ジョアンの統治は、アルビ派問題後の南フランスを王家側に取り込む過程で重要な過渡期をなした。

死と遺産

アルフォンスは1271年8月21日に没した。彼とジョアンの間に王位継承者となる男子はいなかったため、両名の死後、その所領は最終的に王領(ドメーヌ・ロワイヤル)に編入され、フランス王国の領土的統合を進める契機となった。こうしてアルフォンスの死は、カペー朝が地方的封土を直接支配領域として取り込む歴史的転機の一つとなった。

備考:アルフォンスはカペー朝の中で実務能力が高く評価された一人であり、兄ルイ9世の治世において重要な補佐役を務めた。弟にシチリア王となるシャルル(後のシャルル・ダンジュー)を持ち、ヨーロッパ各地に広がる王家の影響力と結びついた人物でもある。