不寛容令(Coercive Acts、植民地側の呼称ではIntolerable Acts)は、1774年にイギリス議会で可決された一連の法令で、前年のボストン茶会事件に対する報復としてマサチューセッツ植民地を主な対象に制定されました。これらは植民地の自治と市民生活に直接的な制限を加える内容であったため、当時のアメリカ植民地側では強い反発を招き、「不寛容な行為」と呼ばれました。
主な内容とその影響
- ボストン港閉鎖法(Boston Port Act):破壊された茶葉の代金が支払われるまで、ボストン港を閉鎖することで、貿易を封鎖し港湾都市の経済を直接的に圧迫しました。港や商人に対する制裁はボストン住民の生活を困窮させ、植民地全体の連帯を促す結果となりました。
- マサチューセッツ政府法(Massachusetts Government Act):植民地政府の仕組みを大幅に改変し、州の上院(評議会)を選挙ではなく総督の任命に移すなど、自治権を縮小するとともに、公開的な町会議の開催を制限しました。これにより住民の自治と政治参加の機会が著しく制約されました。
- 司法管理法(Administration of Justice Act):王室関係者や軍人が植民地で犯罪の疑いをかけられた場合、総督が「マサチューセッツでは公正な裁判が受けられない」と判断すれば、被告の裁判を他の植民地やイギリス本国で行えるようにしました。植民地側はこれを、王室関係者の免責を助ける策だと受け取りました。
- 駐留兵六法(Quartering Act):常備軍の宿営に関する規定を強化し、兵士を現地の宿舎や公共施設、場合によっては民間の建物に収容する権限を拡大しました(植民地側は私宅への駐留が容易になると恐れました)。軍の存在が日常生活に及ぼす圧力が問題視されました。
- ケベック法(Quebec Act):ケベック植民地の領域と統治を拡大する法で、オハイオ州はを含むオハイオ川流域方面までケベックの管轄を広げ、カナダ(カナダ)におけるフランス系住民の宗教や民法を一定程度保障しました。英語系植民地の入植拡大を妨げるものとして受け取られ、宗教的・領土的脅威と見なされました。
これらの法は、マサチューセッツ州に対する具体的な懲罰とともに、植民地全体の自由と権利を脅かすものとして広く非難されました。植民地間の連帯が強まり、他の植民地はマサチューセッツを支持して救援物資を送るなどの援助を行いました。各地の通信委員会(Committees of Correspondence)は協議を呼びかけ、最終的に全植民地の代表が集まる会議が招集されることになり、これが後の大陸会議(First Continental Congress)へつながっていきます。
結果として、不寛容令は植民地の団結と政治的覚醒を促し、武力衝突への道を開く引き金の一つとなりました。経済封鎖や自治権の剥奪に対する植民地側の反発は、1775年のレキシントン・コンコードの戦闘へと至る過程において重要な役割を果たしました。