ジョン・バットマンJohn Batman、1801年1月21日 - 1839年5月6日)は、オーストラリアの開拓者・放牧業者・実業家で、現在のメルボルン周辺に最初に入植した白人の一人として知られる人物である。彼は同時に、タスマニア(当時はヴァン・ディーメンズ・ランド)での先住民との紛争や、ポート・フィリップでの土地取引(いわゆる「バットマン条約」)に関わったことで歴史的に論争の的にもなっている。

出自とタスマニアでの活動

バットマンはパラマタ(シドニーの一部)ローズヒルで生まれ、若年期からタスマニアへ移り住み、放牧や農業で土地を得て事業を拡大した。タスマニアでは入植の過程で先住民アボリジニーとの衝突や暴力的な紛争に関与した記録が残っており、これが後年の評価に影を落としている。

1825年12月、または1826年初頭、バットマンは悪名高いバスレンジャー(山賊)マシュー・ブレイディを捕縛し、これにより一定の名声と報奨を得たことも知られている(捕縛の時期は史料によって若干の差がある)。

ポート・フィリップ遠征と「バットマン条約」

当初、バットマンはビクトリア州のウエスタンポート地区の土地の割当を政府に求めたが却下された。そのため1835年、彼はポート・フィリップ協会の一員としてスクーナー船レベッカ号で本土へ向かい、ポート・フィリップ湾沿岸を探検した。

同年、バットマンは現地の先住民(主にWurundjeriを含むグループ)の複数の長老と会い、毛布・ナイフ・小麦粉などの物資と引き換えに土地を「取得」したとする文書を作成した。この取引は一般に「バットマン条約」と呼ばれる。しかし、

  • 当時の先住民側がこの「契約」の性質をどの程度理解していたか、あるいはその代表者が土地を売る権限を持っていたかは疑問視されている。
  • ニュー・サウス・ウェールズ州知事リチャード・ボーク(Governor Bourke)は、植民地政府の権限と英本国の土地政策に基づき、この私的な土地取得は無効であり、土地は政府(クラウン)に属すると宣言した(ボーク勅令)。結果としてバットマンの私的な取得主張は法的に認められなかった。

晩年と死

1835年以降、バットマンは健康を損ない、晩年は病気がちになった。彼は囚人として入植した女性、エリザベス・キャラハン(Elizabeth Callaghan)と結婚し、数人の子ども(史料により7人の娘と1人の息子とされる)をもうけた。息子はヤラ川で溺死したと伝えられる。バットマン自身は1839年5月6日に死去し、フォークナー墓地(Fawkner Cemetery)に埋葬された。晩年には一部の地元先住民が彼を介護したという記述もある。

評価と遺産

バットマンはメルボルン周辺の地名や像で記憶されている(例:Batman's Hill、Batman Bridge、各種記念碑など)。メルボルン創設当初、短期間「Batmania」(しばしば日本語で「バットマニア」と表記)と呼ばれたこともある。

一方で、バットマンの行為は植民地化と先住民の土地剥奪に深く関わるため、現代ではその評価は大きく分かれている。彼の「条約」が先住民の権利を尊重したものと見る研究者もいれば、植民地主義の一端として批判する立場も強い。近年では記念物や地名の適切性について再検討や議論が続いている。

なお、記載のうち誤りが含まれていた情報(例:「1823年のコモン・ウェルス・ゲームズに参加」など)は史実と整合しないため削除・訂正した。

直系の子孫とされる人物としてオーストラリアのスプリンター、ダニエル・バットマンの名が知られているが、家系の詳細や主張は資料によって異なる。

バットマンはオーストラリア植民史において重要かつ論争的な人物であり、彼の行動とその影響は現在も歴史学・地域社会の議論の対象となっている。